久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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松陰の妹と結婚する

そして松陰は自分の妹・文との結婚を玄瑞に勧め、義弟にしています。

この時に玄瑞は18才で、文は15才でした。

玄瑞は家族をすべて失ってから3年後に、新しく家族を得たことになります。

これは玄瑞に家族がいなかったことに対する、松陰からの配慮だったのかもしれません。

安政の大獄が始まり、松陰が江戸に召喚される

こうして玄瑞は松陰の元で学んだ後、江戸や京都に遊学し、見識を広めていきます。

そうしているうちに、やがて1858年には、日本とアメリカの間に、開港や通商の条件を定める「日米修好通商条約」が締結されます。

しかしこの条約は、朝廷の勅許を得ずに幕府が独断で締結してしまったため、尊王派(天皇こそが日本の中心であると考える思想の持ち主)の志士や諸侯たちが大きく反発し、争いが巻き起こりました。

松陰もまた幕府の専横に激怒し、京都に上洛してくる幕閣を捕縛して条約の撤回を求めようとする過激な策を立て、これを実行に移そうとします。

しかしこの時はまだ幕府の威光が強かったため、松陰に賛同するものは少なく、玄瑞を含む弟子たちは、松陰を諫めてこれを押しとどめようとしました。

この時に松陰は弟子たちを、「功名を求めて命を惜しんでいる」と批判しており、一時的にですが、師弟の間に距離が生じています。

やがて尊王派に対し、幕府の大老・井伊直弼が猛烈な反撃を加え始め、朝廷を動かして幕府を非難しようとした者たちを、ことごとく捕らえ、処罰していきました。

この弾圧は「安政の大獄」と呼ばれています。

この時に松陰もまた江戸に召喚され、尋問を受けることになります。

松陰が処刑される

松陰が召喚されたのは、梅田雲浜(うんぴん)という尊王派の志士が、幕府の尋問に対して口を割らなかったため、面識のあった松陰に、雲浜の言動や行動について聞きただすためでした。

松陰は雲浜のことを評価していなかったため、関わりが薄く、証言することはないと述べて解放されそうになりますが、この時に幕閣を捕縛する計画を立てていたことを供述してしまい、このために松陰もまた罪人として裁かれることになります。

松陰は未遂であったため、重い罪にはなるまいと考えていましたが、この時には無実の者や、たいした罪のない者たちも含め、井伊直弼が危険だと考えた人物はすべて処刑されており、このために松陰も処刑されることになってしまいます。

処刑を前にして、松陰は自分は30才で寿命を迎えるが、自分の志は後に残る者たちが継いでいって欲しい、という内容の書簡を残しており、これが弟子たちの間で回覧されました。

そして松陰が処刑された後、その遺志をまっすぐに受け止めたのが、玄瑞でした。

松陰の弟子同士の結束を強め、他藩との連携も開始する

玄瑞は松陰の死後に、一燈銭申合(いっとうせんもうしあわせ)という会議を開き、松下村塾の元塾生たちを集めます。

この時に桂小五郎や高杉晋作、山県狂介(後の有朋)、伊藤俊輔(後の博文)ら24名が集まり、尊王攘夷運動の資金を集めるため、松陰の著作である「講孟余話(こうもうよわ)」の写本を作成し、それを販売することを決定します。

これは1861年のことでしたが、この年から玄瑞は本格的に志士活動を開始し、長州、薩摩、土佐、水戸らの、いわゆる雄藩の有志による連合体を形成し、尊王攘夷運動を推進していきました。

尊王攘夷とは、天皇を中心とした新たな政体を構築し、日本の国力を強化して、外国の侵略を打ち払おう、とする思想のことです。

この結果、玄瑞はこの時期における尊王攘夷、並びに反幕府活動の中心人物としての地位を得ることになっていきます。

こうして玄瑞は、松陰が見込んだ通りの活躍を見せ始めました。

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