久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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攘夷期限の設定を幕府に求め、朝廷の主導権を握る

勅使が江戸に下り、幕府に攘夷の実行を迫りましたが、幕府はなかなかこれを承諾しようとはしませんでした。

ペリーに蒸気船で脅迫された経験を持つ幕府は、戦端を開いたところで勝ち目がないことをよく理解していましたので、これは当然の結果であったと言えます。

玄瑞はさらに幕府を追い詰めるため、1863年の2月に、関白である鷹司輔煕(たかつかさ すけひろ)の屋敷に出向いて建白書を提出し、攘夷期限を定めるようにと要請しました。

そしてこの頃に京都藩邸の御用掛に任命され、朝廷への工作がさらに行いやすくなっています。

玄瑞の働きかけによって朝廷が動き、幕府は朝廷への御親兵の設置と、攘夷期限の設定を行わざるを得なくなりました。

この結果、3月に幕府から諸藩に攘夷の実行が通告され、その期限は5月10日であると定められます。

この時期が玄瑞の活動の全盛期であり、三条実美ら攘夷派の公卿たちと手を組んで、国政を思う様に操っていました。

京都では尊王派の志士が盛んに活動し、公家たちを豊富な資金で懐柔したり、時には暗殺によって脅しをかけ、朝廷を牛耳っていたのです。

こうして玄瑞の思惑通りに事態は進行し、長州藩でも攘夷を実行するため、玄瑞は4月に帰藩します。

外国船砲撃の準備をすすめ、光明寺党を結成する

長州藩では幕府が宣言した5月10日に、関門海峡を通航する外国船を砲撃することになりました。

玄瑞は50人の同志とともに、馬関にある光明寺を拠点に定め、光明寺党を結成します。

この光明寺党は、所属する藩や身分を問わない有志たちを集めて結成されたもので、松陰が唱え、玄瑞が実践した、草莽の人々の力を束ねて世を変えていこうとする思想を体現したものでした。

この光明寺党が後に奇兵隊となり、維新活動を推進する軍事力の、象徴的な存在となっていきます。

外国船への砲撃を実行する

5月10日に、長州藩は馬関海峡を封鎖し、航行をしていたアメリカ・フランス・オランダの艦船に対して、通告なしに砲撃を加え、攘夷を実行に移しました。

しかし、この時に長州藩が用いた旧式の大砲では、海峡の反対側(九州寄りの側)まで射程が届かないことが判明します。

このため、かつて松陰が書いた戦術書にのっとり、夜中に船で外国船に近づき、乗船して攻撃するという策に出ています。

こうして外国船への攻撃が実施されると、長州藩は朝廷への報告と、非協力的な態度を示した、対岸の小倉藩への処罰要請を兼ねて、玄瑞を京都に送り出しました。

ちなみに、この時に攘夷を実行したのは長州藩のみで、他藩は様子見に徹しており、その孤立ぶりが明らかになっています。

異変の兆し

長州藩が攘夷を実行して10日の後、京都ではひとつの暗殺事件が発生していました。

朝廷の攘夷推進派であり、三条実美とともに長州藩の後ろ盾となっていた公卿の姉小路公知が、薩摩藩士の田中新兵衛に殺害されてしまったのです。

しばらく前までは、薩摩藩の志士たちは長州藩と連絡を取り、攘夷と反幕府活動のために協調していたのですが、この時期にはその体制はゆらいでいました。

なぜかというと、この時期に薩摩藩の実権を握った島津久光が、佐幕派(幕府支援派)であり、反幕府的な姿勢を持つ長州藩を、敵視するようになっていたからです。

久光はこれ以前に京都の寺田屋に集まった、薩摩の尊王攘夷派の藩士たちを粛正させており、西郷隆盛も罪人として追放されていたため、薩摩藩では尊王攘夷派の影響力が低下していました。

こうした経緯によって薩摩藩は変貌し、長州藩と協調している姉小路公知を暗殺したのです。

こうして長州藩と朝廷とのつながりは、大きく損なわれることになりました。

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