久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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長州軍が出発し、玄瑞は嘆願書を提出する

池田屋事件の詳細が伝わると、長州藩士たちは身分を問わずに激昂し、京都に進軍して会津藩を討つべきだ、という意見が支持されるようになっていきます。

このことが、後に戊辰戦争の際に、会津が徹底的な討伐を受けることの、伏線となっています。

長州藩兵はついに出発し、京都に向かって進軍を開始しました。

しかしながら、長州藩の戦力のみで状況を覆すのは困難であり、京に滞在し続けていた玄瑞は、そのことをよく知っていました。

このため、玄瑞は朝廷に嘆願書を提出し、寛大な措置を要請します。

この時点では、他藩や公卿たちもまだ長州藩に同情的だったのですが、長州藩の動きを察知した幕府が諸藩に京都への出兵を命じ、軍勢が集結し始めると、形勢は変わって行ってしまいます。

特に精強で知られ、装備も充実している薩摩藩兵を率いて西郷隆盛が入京すると、長州藩に味方する者は激減していきました。

こうして玄瑞と長州藩は、ますます追い詰められていくことになります。

大会議が開催される

長州藩兵は京都の郊外にある男山八幡宮に本営を構え、7月17日に大会議を開催しました。

この時に20人の幹部級の人員が集結し、激しく議論になります。

進軍を主張したのが来島又兵衛で、これを押しとどめようとしたのが玄瑞でした。

玄瑞は朝廷から退去命令が出ており、これに背くべきではなく、兵を引き上げるべきだと主張しました。

朝廷に逆らうと朝敵になり、長州藩を討伐する大義名分を、幕府に与えることになってしまいます。

その上、この時の長州藩兵は2千でしかなく、諸藩の兵は3万にも達する規模になっていましたので、進軍は無謀であり、玄瑞の主張は妥当なものだったと言えます。

来島又兵衛の主戦論が承認される

しかし来島又兵衛は強硬に進撃を主張し、玄瑞に詰め寄りました。

玄瑞はなおも「今回の活動は君主の無実を晴らすために、嘆願を重ねるのが目的であり、こちらから手を出して戦闘を行うべきではない。世子(毛利定広)も近日中に来着するのだから、それを待ってからでも遅くはない。いま軍を進めても、援軍はなく、我が軍の準備も十分ではない。必勝の見込みが立ち、戦機が熟するまで待つべきだ」と来島又兵衛を説得にかかります。

しかし来島又兵衛は、「医者坊主などに戦争の何がわかる。もしも命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここに留まるがよい!」と玄瑞を罵り、参謀格の真木和泉も又兵衛に賛同したことから、方針は進撃に決定されてしまいました。

もはや議論をしても覆せない、と悟った玄瑞は、それ以上は言葉を発さずに会議の場を立ち去り、自分が所属する天王山の陣に戻りました。

この時に玄瑞は長州藩が敗れ、非常な危機にみまわれることを予測したでしょうが、京都から逃げ出すことはなく、前関白の鷹司輔煕に再度、嘆願を行って朝廷からの許しを得ることに希望をつなぎます。

来島又兵衛に「医者坊主などに」と罵られた上で京都から離れると、そのそしりが事実であったと認めることになってしまうため、玄瑞は引くに引けなくなってしまった、という事情もあったと思われます。

禁門の変

こうして進軍を開始した来島又兵衛の隊は、筑前藩の兵が守る中立売門を突破し、御所内に侵入することに成功します。

そこで他の門から駆けつけた薩摩藩兵と激戦になりました。

御所の門前で行われた戦いであったことから、この事件は「禁門の変」と呼ばれています。

薩摩藩兵を指揮していた西郷隆盛は、長州藩兵の強さの源は指揮官の来島又兵衛であることを見抜き、部下に命じて彼を狙撃させます。

これを受けて落馬した来島又兵衛は、もはや戦いを継続することが不可能であると悟り、自害して果てました。

こうして来島隊は壊滅し、長州藩の戦線は崩壊していきます。

思想的に長州藩よりだった西郷は、長州藩兵と戦うことを避けようとしていたのですが、他藩の兵が崩れたために、やむなくこの措置を取ったのだと言われています。

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