久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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玄瑞の反発と、松陰の再反論

これに玄瑞は猛烈に反発し、「アメリカやイギリスの強さは過去の外敵とは比較にならず、彼らの兵器に太刀打ちできないのはわかっている。かといって、何もせずに国が滅びるのを待つことはできないし、守りを固めることくらいはできるはずだ。あなたがこのような妄言を成す人であるのなら、宮部殿があなたを賞賛したのも、私があなたを豪傑だと思ったのも、誤りだったようだ」と書き送りました。

このあたり、玄瑞は若者らしく、理論的に物事を考える要素は薄く、国を憂う気迫をその文面で表現しています。

松陰はこれに対し、一ヶ月ほど間を置いてから「幕府はすでに外国勢力と条約を結んでおり、我が国から断交すると国家間の信義を失う。外国とは平穏な関係を保ちつつ、日本の国力を高め、アジア諸国と手を結んでから欧米諸国と対峙するのがよいだろう。あなたは一医学生でありながら天下の大計を述べているが、ただの空論に過ぎない。一時の感情に任せ、それを文章に書くような態度はやめなさい」と、再び厳しい評論を加えました。

3度目のやりとりで決着がつく

玄瑞はこれに屈せず「諸国との交易では、日本は損をして、外国ばかりが得をしている。そんな状況でどうやって国力を蓄え、武器を揃えるのか。士気を高めるのか。危急存亡の事態に、いったい誰が対処しているのか。みな現状を保つことに汲々としているばかりではないか」と3度目の書簡を送りました。

これは「一医学生でありながら」と批判されたことについての反論だと思われます。

これに再び松陰も応じ、「あなたが外国の使者を斬ろうとするのを、空論と批判したのは間違いだった。今すぐにアメリカの使者を斬りなさい。あなたがどのような才略でそれをやり遂げるのか、傍観させていただこう。私もかつてアメリカの使者を斬ろうと考えたことがあるが、無益だと悟ってやめてしまった。あなたは自分の言葉通り、断固としてやり遂げて欲しい。もしもできないのであれば、私はあなたの大言壮語を、いっそう非難するだろう」と告げました。

玄瑞はいくら手紙でアメリカの使者を斬ろうと主張しようとも、具体的にその手立てを持っているわけではなく、自分の言っていることが空論に過ぎないことを、松陰に暴かれてしまいます。

こうして松陰との論争に敗れた玄瑞は、自分の未熟を悟り、松陰の門下に入ることになりました。

松陰は玄瑞を試していた

こうして松陰は少年に対するものとしては、手厳しい論評を加えましたが、これは玄瑞の人物を試すために、あえてそうしたのでした。

松陰はもとより玄瑞の才能と気迫を高く評価しており、何とかして彼を大成をさせたい、と考えていました。

そのためにわざと強い反論を加えて様子を見ることにし、「激昂して反駁してくれば本望で、うわべを取り繕って受け入れたふりをするような人間であれば、見込み違いだったということになる」という手紙を、友人に送っています。

この論争によって松陰は玄瑞が本物であると認め、その才能を開花させようと努めるようになりました。

松下村塾に入り、松陰の元で学ぶ

この時期の松陰は、ペリーの来航時にアメリカへの渡航を企てて失敗し、自首をしたために、罪人となって長州で謹慎することを強いられていました。

この時代はまだ、私的な海外渡航は禁止されていたからです。

松陰は一時、牢屋に入れられていましたが、出獄した後、実家に「松下村塾」という学問所を開き、身分を問わず、長州藩の若者たちに教育を施しています。

この時に松下村塾に集っていたのは、高杉晋作や吉田稔麿(としまろ)、入江九一といった優れた若者たちで、彼らは後に玄瑞の同志となり、長州藩を主導するようになりました。

玄瑞はこの若者たちの中でも、特に松陰からその才能を称賛され、「防長(長州藩)年少第一流の人物」と評されています。

松陰は玄瑞の他に、高杉晋作のことも高く評価しており、両者を競わせることで、ともに優れた人材として育つようにと働きかけました。

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