久坂玄瑞 吉田松陰の後を継ぎ、尊王攘夷に奔走した志士の生涯

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坂下門外の変

かつて桂小五郎らの長州藩士と、水戸藩士たちは、協力して尊王攘夷を推進していこう、という約束をしていました。

これを邪魔する幕閣を襲撃する計画も立てられますが、長州藩では長井雅楽への支持が強まったことから、藩士たちの参加が困難となり、この盟約から離脱してしまいました。

しかし残った水戸藩士たちは単独で、幕閣を襲撃して航海遠略策を阻止することを計画します。

そして1862年の1月15日に、江戸城に登城する途中の老中・安藤信正を坂下門外で襲撃し、これを負傷させました。

この「坂下門外の変」の結果、襲撃に参加した水戸藩士たちは討たれてしまいますが、面目を失った安藤信正を失脚させることには成功し、航海遠略策を支持する勢力が、大きく衰退することになります。

朝廷でも尊王攘夷派が台頭する

坂下門外の変の発生に連動し、朝廷では尊王攘夷派で、航海遠略策に反対する岩倉具視が台頭します。

そして長州藩の反幕府派の工作も功を奏し、ついに航海遠略策は「朝廷を誹謗するものだ」という理由によって退けられ、長井雅楽の運動は失敗に終わります。

長州藩の内部でも、安藤信正の失脚や朝廷の沙汰によって航海遠略策への支持が急低下し、ついに長井は帰国を命じられ、謹慎させられることになりました。

そして策の周旋が失敗に終わった責任を追求され、ついには切腹を命じられます。

長井派の藩士はまだ多く残っていましたが、長井は藩論が二分されることによって内乱が発生することを憂い、このために切腹を受け入れました。

こうして玄瑞は政敵を葬り、長州藩を自らの論によって主導することになります。

「廻瀾條議」を建白する

玄瑞は航海遠略策に変わる政策として、「廻瀾條議(かいらんじょうぎ)」という建白書を藩主に提出します。

この中で玄瑞は、罪人として葬られている松陰の遺骸を改葬し、その忠節を顕彰し、誰の意見が正しかったかをはっきりさせよ、と師の名誉回復を計っています。

そして日米修好通商条約を結んだことにより、日本は植民地にされる危機を迎えた、と批判し、これを結んだ幕閣は厳罰に処されるべきであると、反幕府の姿勢を鮮明にしました。

そして長州藩と薩摩藩が主導して、条約締結を進めた幕閣への処罰を実行し、日米和親条約の段階までアメリカとの関係を巻き戻し、諸国との交易を中止するべきだと主張しました。

そして朝廷に御親兵を置き、御政事所を設けて、軍事と政治の実権を朝廷に戻すべきである、と王政復古の方針を掲げています。

以上の策を実施した上で、海軍を充実させ、士気を高めて積極的に海外に出て、日本は雄飛するべきである、と結論づけました。

この時の玄瑞の主張は、条約の巻き戻しを除き、紆余曲折を経て、明治維新の過程で実行されていくことになります。

つまり玄瑞はこの時に、維新への道筋を明らかにしたのだと言えます。

長井雅楽との違い

玄瑞と長井雅楽の主張は、ともに海外に積極的に打って出て、日本の国力を高めていくべきである、という点では一致していました。

これは当時の優れた人物たちの間では共通認識となっており、幕府や諸藩の中にも同じ事を考えていた政治家は多数存在していました。

玄瑞と長井雅楽で異なっていたのは、誰がそれを主導するのか、という点であり、玄瑞は朝廷を中心に据えて幕府を排除し、身分を問わずに有志を募って実現するべきだと考えており、長井雅楽は幕府と朝廷、諸大名が共同してこれを成し遂げるべきだと考えていました。

この相違によって両者は争うことになり、玄瑞が勝利したのです。

この結果、長州藩は先鋭的に攘夷、および倒幕運動を推進することになっていきます。

しかしながら、当時はまだ幕府と朝廷が協力し、これに雄藩の諸侯が参画して難事に当たるべきだという、公武合体論の方が広く支持を集めており、長州藩は世間から孤立した、独自路線を歩んでいくことにもなりました。

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