電子書籍『正史に基づく三国志 蜀志篇』をkindle storeにて販売しています

電子書籍『正史に基づく三国志 蜀志へん』を、Amazonのkindle storeにて、販売開始しました。

これは三国志に登場するしょくという国を作り、支えた人物たちについて書いた本です。

三国志は二つあり、まず蜀やしんに仕えた陳寿ちんじゅが、歴史書としての『三国志』を編纂へんさんしました。これは『正史せいし』とも呼ばれます。
それからおおよそ千年後、羅貫中らかんちゅうによって、正史を元にした歴史小説『三国志演義えんぎ』が作られました。

三国志として広く知られているのは演義の方なのですが、本書では正史において、蜀という国がどのように描かれているのかを、解説をまじえつつ紹介しています。
主に劉備りゅうび諸葛亮しょかつりょう姜維きょういといった人物たちの動向について、詳しく述べています。

正史は個人伝を数多く記録し、それを総合することで、はじめて事態の全体像がつかめるような形で書かれています。

たとえば、『赤壁せきへきの戦い』について詳しく知ろうとすると、中心人物である劉備、孫権そんけん曹操そうそうの他に、諸葛亮、周瑜しゅうゆ魯粛ろしゅく黄蓋こうがいら、関わった人たち全員の伝に目を通すことで、ようやく理解しきることができます。

また、諸葛亮に関する記述をすべて把握しようとすると、『諸葛亮伝』を読むだけでは足りず、各巻に散らばった百数十か所の文章を確認しなければならなかったりもします。

このようなものですので、正史は読みこなすのに手間がかかり、理解には労力が必要となります。このために本書では、各伝に含まれた蜀に関する記述をひとつの流れとして構成し、読みやすくしようと試みています。

一本の流れにすることによって、見えてくるものもあるのではないか、というのが本書を書いた動機です。

劉備の誕生から始まり、蜀が建国され、やがて滅亡するまでの百三年間を描いています。

単に正史の流れをなぞるだけでなく、政治情勢や、当時の習慣・制度などについての解説も付け加え、わかりやすくしています。

また、地図や年表も掲載しています。

表紙

三国志_蜀_表紙

本書に向いている方

正史に興味はあるものの、内容を詳しく知らないので触れてみたい、という方に向いています。

ボリュームについて

文量は18万字ほどで、400字詰めの原稿用紙に換算すると450枚分になります。
文章はすべて書き下ろしで、このサイトの記事から移植したものではありません。

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サンプル

以下に、本書の冒頭のサンプルを掲載します。

劉備の誕生

 劉備はゆう州という、かんの北東部に設置された州で誕生しました。この州の北方には異民族が住んでおり、辺境に近い地域です。
 詳細に述べると、幽州の涿たく郡涿県、楼桑ろうそう村の出身でした。
 この時代の中国では、行政区分は「州→郡→県」の順番に小さくなっていきます。現代の日本とは、県と郡が逆でした。

 当時、中国は後漢と呼ばれる時代でしたが、劉備はこの漢王室の血を引いています。
 「後」とつくのは、間に二十年ほどの断絶があり、ぜん漢と後漢に区分けされているためです。
 前漢は紀元前二〇六年に、宿敵であるこうを撃ち破り、天下統一を達成した劉ほうによって建国されました。
 その後、劉氏が代々皇帝の地位を継承していきます。

 劉備の活動の動機に深く関わってきますので、まずは劉備一族の来歴を紹介します。

 前漢の皇族の中に、劉しょうという人がいました。彼が劉備の先祖です。
 劉勝は六代皇帝・景帝の子で、中山ちゅうざんせい王の地位にあったので、裕福でした。
 そしてありあまる資産を、酒と色香におぼれることに費やします。つまりは遊び人だったのでした。
 この結果、彼は数十人もの子を作り、孫を百人以上も世に残します。
 それ以外には、特に何かを成したという記録はありません。

 そんな劉勝の子の一人である劉ていは、涿郡の陸城亭候りくじょうていこうという爵位を与えられました。
 しかし朝廷に献上金を納めることを怠った、という罪によって地位を取り上げられてしまいます。
 当時の朝廷は爵位を持つ者を減らす政策をとっており、何かと理由をつけては取り上げていましたので、実際にはたいした罪はなかった可能性もあります。
 劉勝のように多くの子孫を残す者もいましたが、このころには王族が増えすぎ、全員に領地を与えていると国家の財政が圧迫されるので、整理した、という事情だったのかもしれません。
 ともあれ、劉貞はその後も涿郡に住み続けたようで、劉備へと連なる家系が存続していきました。

 その後、前漢が滅亡し、光武こうぶ帝・劉しゅうによって後漢が建国されます。
 この時代にあって、劉備の祖父と父は、州や郡で役人として働いていましたので、地方官の家柄でした。
 祖父の劉ゆう孝廉こうれんに推挙されていますので、優れた資質を備えていたか、あるいは強い人脈があったようです。
 孝廉は各地の郡から毎年一人が選ばれ、地方から中央に推挙される、人材登用の制度です。
 父母や先祖を敬っているか、そして素行が清く正しいかどうかが、基準として選抜されました。
 当時は儒教の影響が強かったので、このような基準が重視されたのです。
 しかし、この制度はしだいに形ばかりのものとなり、有力者と付き合いのある者が、優先的に推挙されることが多くなっていきます。

 劉雄はこれに選ばれ、地位は県令けんれい(県の長官)にまで登りました。
 この話からして、劉備の一族は、涿郡で一定の勢力を持っていたことがうかがえます。
 そして父の劉こうは、地方官として勤めました。
 劉備は一六一年に、この家の子として誕生しています。

貧しい境遇に置かれる

 このようなわけで、劉備の家は本来、特に貧しい境遇でもなかったのですが、父を早くに亡くしてしまったために、残された母子は生活に苦労することになります。
 劉備は母と一緒にくつを商い、敷物をんで暮らしを成り立たせました。
 一方で子どものころの劉備には、次のような挿話があります。
 劉備の家の庭には大きなくわの木があり、遠くから眺めると、車の天蓋てんがいのように見えました。そして通りかかったある人が「いずれ、この家から貴人が出るだろう」と予言します。
 幼い劉備自身も「俺はいつか必ず、こんな羽飾りのついた車に乗ってやるぞ」と元気に語っていました。羽飾りのついた車とは、皇帝の乗り物のことであり、劉備が子どものころから、大きな志を持っていたことが表されています。
 とは言え、劉備が皇帝になるということは、現在の皇室に取って代わることを意味しますので、叔父おじの劉子敬しけいから「お前、妙なことを言うものではないぞ。我ら一門を滅ぼすことになりかねん」とたしなめられています。

叔父の援助を受けて遊学する

 このような事情で家が貧しかったので、そのままですと、劉備が世に出るのは難しい状況でした。
 しかし十五才の時、叔父の劉元起げんきから援助を受け、盧植ろしょくの塾に遊学することになります。(本書における年齢の表記は、すべて数え年です)
 盧植は各地の太守たいしゅ(郡の長官)を歴任し、反乱討伐で活躍した、文武両道の人物です。そしてじゅ学に精通し、著作もしていました。
 廬植は涿県の出身だったので、地元の子弟のために塾を開き、後進の指導にあたっていたのです。

 ところで、叔父には劉備を援助する義務はなかったので、妻からどうして学資を出してやるのですか、とたずねられました。すると叔父は「あの子は、普通の子どもではないからだ」と答えました。
 このように、劉備は若くして人から期待され、援助をしたいと思わせるだけの資質を示していたようです。また劉備の一族は、それなりに資力を備えていたことがわかります。

公孫瓚こうそんさんと親しくなる

 劉備は盧植の弟子になると、そこで知り合った公孫瓚と友人になりました。この出会いが、後に劉備が立身する上で、大きな影響をおよぼすことになります。
 公孫瓚は幽州の地方豪族の家に生まれたのですが、母親の身分が低かったので、冷遇されました。このため、少年時代は苦労したようです。
 やがて遼西りょうせい郡の役所に勤めはじめ、太守直属の文官になります。そこで能力を発揮するうちに、才能を高く評価されました。
 公孫瓚は弁舌がたくみで記憶力がよく、各部署から上がってくる報告をわかりやすく、まとめて説明することができました。このために太守から、見込みのある若者だとみなされるようになります。
 そして公孫瓚は太守の娘婿むすめむことなり、援助を受けて遊学する機会を与えられたのでした。
 劉備の境遇と似たところがあり、このためもあってか、両者は親友になります。劉備の方が年下だったので、公孫瓚に兄事しました。
 盧植のような、高名な人物の塾には若い人材が集いますので、劉備はここで人脈を築き、世に出るきっかけをつかむことになります。

人気者となり、資金を得る

 劉備は勉学にはさほど熱心でなく、馬に乗り、音楽を聴くことを好みました。そして着飾ることも好きだったので、明るく、享楽きょうらく的な性格だったことがうかがえます。
 ちなみに馬術も音楽も、士人が身につけるべき教養に含まれていましたので、塾で何も学んでいなかった、ということではないようです。
 劉備は身長が七尺五寸(約173センチ)でした。この時代では、長身の部類です。そして手はひざまで届き、自分の目で見れるほど耳が大きい、という外見的な特徴を持っていました。
 また、人にへりくだって接することができ、軽率に強い感情を表に出すことがありませんでした。そして人付き合いを好み、豪傑ごうけつ侠客きょうかくたちと盛んに交際します。
 このようなありさまだったので、若者たちは競って関わりを持ちたがり、劉備は人気者になりました。

 そんな劉備に注目したのが、涿郡で馬の売買をしていた豪商たちでした。
 張世平ちょうせいへい蘇双そそうという二人の商人は、大金を携たずさえて涿郡で商売をしていたのですが、劉備を見て「ただ者ではない」と思い、資金を援助することにします。
 彼らの目には、劉備はなにか大きなことをやりそうな若者だと映ったようです。
 劉備はこうして元手を手に入れると、仲間を集めるために使いました。
 叔父といいこの商人たちといい、若き日の劉備は、とかく支援者に恵まれています。

黄巾こうきんの乱

 このような経緯で、劉備が活動の基盤を手に入れたころ、後漢の統治は大きく乱れつつありました。各地で反乱があいつぎ、討伐軍が派遣され、ひとまず抑えこまれてはいましたが、国勢はじわじわと衰える一方でした。
 これは当時の皇帝であるれい帝が、公正な政治を行う気がない、宦官かんがんたちに大きな権力を与えていたのが原因です。
 宦官は、去勢された上で皇族に仕え、身の回りの世話をする者たちです。じかに接することができたため、時に皇族に気に入られ、引き立てを受け、高い地位が与えられることもありました。
 霊帝お気に入りの宦官たちは、賄賂わいろを贈ってきた者や、近親者ばかりを重用して高官の地位を割りふり、能力や人格を基準にしませんでした。
 このために悪臣がはびこるようになり、政治の質が落ち、でたらめな法の運用や、重税に苦しむ民が増えていきます。
 また、霊帝自身もひたすら贅沢ぜいたくにふけり、宮殿を造営するために増税するなどしており、苦しめられていた民の暮らしを、かえりみることはありませんでした。
 つまるところ、霊帝は暗君あんくんだったのです。
 このように、君臣ともに腐敗していたので、各地で反乱が起きやすくなり、体制がゆさぶられていったのでした。

 一八四年に発生した黄巾の乱は、その中でも最大規模のもので、数十万の民衆が参加しています。
 これは太平道たいへいどうという新興宗教が、朝廷の求心力の低下に乗じて信者を集め、ついには世を転覆てんぷくさせようと、行動を起こしたものでした。
蒼天そうてんすでに死す、黄天こうてんまさに立つべし」というのが、太平道がかかげたスローガンです。
 古代の中国では、王朝はそれぞれに循環する色を備えているとされ、その変化が時代の移り変わりを表現していました。そして漢王朝の次代の色は「黄」だと考えられていたのです。
 このために「もうすぐ黃の時代(黄天)が来るから立ち上がろう」と訴え、頭に黄色い頭巾(黄巾)をつけてユニフォームにすることで、結束を高めたのです。そうして反乱に正当性を与え、次代の権力を掌握しょうあくしようとはかったのでした。
(太平道の信者たちは「黄帝こうてい」という古代の伝説的な王を崇拝していたので、「黄」を重視したのだという説もあります)

 この反乱の中心人物は張角ちょうかくで、太平道の教祖です。こういうしかけやスローガンを考えたあたり、なかなかの知恵者だったと言えます。
 これに弟の張ほうと張りょうも加わり、州と州、そして劉備が住む幽州でも、官軍との戦いが発生しました。

義勇軍を結成し、黄巾の討伐に参加する

 このような状況になると、劉備は仲間たちとともに義勇軍を結成し、黄巾の討伐に参加することにしました。反乱が多発する状況は、武勇によってひと旗あげようとする若者たちにとっては、絶好の機会でもあったのです。
 この時に関羽かんう張飛ちょうひが、劉備とともに立ち上がっています。
 関羽は河東かとうかい県の出身で、別の土地から涿郡に流れてきていました。
 劉備のところに来る前に何をしていたのかは不明ですが、地元には塩が取れる湖があったので、塩の売買に関わっていた、という伝説があります。
 一方、張飛は涿郡の出身で、劉備と同郷でした。
 彼もまた、劉備と出会う前の経歴は不明で、この時までは無名の存在でした。力のある家の出身でもなく、野に転がった原石のようなものだったのです。

 劉備は集まった仲間たちの中から、特に関羽と張飛を見出し、自分の護衛をするようにと告げました。
 それだけでなく、寝起きをともにし、実の肉親であるかのように温かく接します。関羽と張飛は劉備のふるまいに深く感じ入り、この後の生涯を通し、劉備に絶大な忠誠を誓い続けることになりました。
 おそらく劉備は、関羽と張飛の飛び抜けた武勇の才を発見し、自分の部隊の中核にするために、大事に扱うべきだと考えたのでしょう。そしてこの二人は単に強いだけでなく、あつく義心を備えていることにも、気がついていたのだと思われます。
 この三者の強固なつながりが、劉備が蜀を建国するにあたり、大きな原動力となっていきました。
 この時に、外交面で活躍する簡雍かんようも加わっているのですが、彼もまた流転が激しかった劉備に、最後までついていっています。
 劉備には、どれだけ厳しい状況に置かれようとも、ついて行きたいと人に思わせるだけの、魅力があったようです。

 劉備は仲間たちを連れ、校尉こうい(官軍の指揮官)である鄒靖すうせいに従い、黄巾党と戦いました。
 黄巾党は蜂起ほうきしてから一年ほどで、首謀者である張角が病死し、弟たちが討ち取られたので、弱体化していきます。
 黄巾党は農民を主体として構成されていましたので、数こそ多かったものの、官軍に対抗できるほどの戦力は、整えられなかったのでした。
 この討伐には、曹操や孫堅そんけんも参加しており、それぞれに武功を立てています。
 また、劉備の師である盧植は北中郎将ほくちゅうろうしょうとして、官軍の主力を担い、黄巾党に連戦連勝しました。
 しかし、監督にやってきた役人に賄賂を渡さなかったために、解任されてしまっています。この様子からも、当時の朝廷の腐敗ぶりが、ひどいものだったことがわかります。
 このため、黄巾党を退けても、世は治まりませんでした。

 黄巾党の勢力が弱まると、今度は幽州の南にあるせい州で、張純ちょうじゅんという男が反乱を起こしました。
 劉備は有力者の推薦を受け、こちらの討伐においても官軍に随行し、武功を立てています。推薦を受けたことから、劉備の武勇と兵団の強さが、世に認められていたことがわかります。
 この功績によって、劉備は中山郡安喜あんき県のに任命され、はじめて官職につきました。尉とは、治安維持のために働く武官のことです。いわば警察署長であり、駐屯する部隊長も兼ねたような地位でした。
 義勇軍あがりである劉備が最初に就任するのには、適した職だったと言えます。

サンプルはここまでです。

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