電子書籍『正史に基づく三国志 蜀志篇』を、Amazonのkindle storeにて、販売開始しました。
これは三国志に登場する蜀という国を作り、支えた人物たちについて書いた本です。
三国志は二つあり、まず蜀や晋に仕えた陳寿が、歴史書としての『三国志』を編纂しました。これは『正史』とも呼ばれます。
それからおおよそ千年後、羅貫中によって、正史を元にした歴史小説『三国志演義』が作られました。
三国志として広く知られているのは演義の方なのですが、本書では正史において、蜀という国がどのように描かれているのかを、解説をまじえつつ紹介しています。
主に劉備、諸葛亮、姜維といった人物たちの動向について、詳しく述べています。
正史は個人伝を数多く記録し、それを総合することで、はじめて事態の全体像がつかめるような形で書かれています。
たとえば、『赤壁の戦い』について詳しく知ろうとすると、中心人物である劉備、孫権、曹操の他に、諸葛亮、周瑜、魯粛、黄蓋ら、関わった人たち全員の伝に目を通すことで、ようやく理解しきることができます。
また、諸葛亮に関する記述をすべて把握しようとすると、『諸葛亮伝』を読むだけでは足りず、各巻に散らばった百数十か所の文章を確認しなければならなかったりもします。
このようなものですので、正史は読みこなすのに手間がかかり、理解には労力が必要となります。このために本書では、各伝に含まれた蜀に関する記述をひとつの流れとして構成し、読みやすくしようと試みています。
一本の流れにすることによって、見えてくるものもあるのではないか、というのが本書を書いた動機です。
単に正史の流れをなぞるだけでなく、政治情勢や、当時の習慣・制度などについての解説も付け加え、わかりやすくしています。
また、地図や年表も掲載しています。
表紙
本書に向いている方
正史に興味はあるものの、内容を詳しく知らないので触れてみたい、という方に向いています。
ボリュームについて
文量は18万字ほどで、400字詰めの原稿用紙に換算すると450枚分になります。
文章はすべて書き下ろしで、このサイトの記事から移植したものではありません。
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サンプル
以下に、本書の冒頭のサンプルを掲載します。
劉備の誕生
劉備は幽州という、後漢の北東部に設置された州で誕生しました。この州の北方には異民族が住んでおり、辺境に近い地域です。
詳細に述べると、幽州の涿郡涿県、楼桑村の出身でした。
この時代の中国では、行政区分は「州→郡→県」の順番に小さくなっていきます。現代の日本とは、県と郡が逆でした。
当時、中国は後漢と呼ばれる時代でしたが、劉備はこの漢王室の血を引いています。
「後」とつくのは、間に二十年ほどの断絶があり、前漢と後漢に区分けされているためです。
前漢は紀元前二〇六年に、宿敵である項羽を撃ち破り、天下統一を達成した劉邦によって建国されました。
その後、劉氏が代々皇帝の地位を継承していきます。
劉備の活動の動機に深く関わってきますので、まずは劉備一族の来歴を紹介します。
前漢の皇族の中に、劉勝という人がいました。彼が劉備の先祖です。
劉勝は六代皇帝・景帝の子で、中山靖王の地位にあったので、裕福でした。
そしてありあまる資産を、酒と色香におぼれることに費やします。つまりは遊び人だったのでした。
この結果、彼は数十人もの子を作り、孫を百人以上も世に残します。
それ以外には、特に何かを成したという記録はありません。
そんな劉勝の子の一人である劉貞は、涿郡の陸城亭候という爵位を与えられました。
しかし朝廷に献上金を納めることを怠った、という罪によって地位を取り上げられてしまいます。
当時の朝廷は爵位を持つ者を減らす政策をとっており、何かと理由をつけては取り上げていましたので、実際にはたいした罪はなかった可能性もあります。
劉勝のように多くの子孫を残す者もいましたが、このころには王族が増えすぎ、全員に領地を与えていると国家の財政が圧迫されるので、整理した、という事情だったのかもしれません。
ともあれ、劉貞はその後も涿郡に住み続けたようで、劉備へと連なる家系が存続していきました。
その後、前漢が滅亡し、光武帝・劉秀によって後漢が建国されます。
この時代にあって、劉備の祖父と父は、州や郡で役人として働いていましたので、地方官の家柄でした。
祖父の劉雄は孝廉に推挙されていますので、優れた資質を備えていたか、あるいは強い人脈があったようです。
孝廉は各地の郡から毎年一人が選ばれ、地方から中央に推挙される、人材登用の制度です。
父母や先祖を敬っているか、そして素行が清く正しいかどうかが、基準として選抜されました。
当時は儒教の影響が強かったので、このような基準が重視されたのです。
しかし、この制度はしだいに形ばかりのものとなり、有力者と付き合いのある者が、優先的に推挙されることが多くなっていきます。
劉雄はこれに選ばれ、地位は県令(県の長官)にまで登りました。
この話からして、劉備の一族は、涿郡で一定の勢力を持っていたことがうかがえます。
そして父の劉弘は、地方官として勤めました。
劉備は一六一年に、この家の子として誕生しています。
貧しい境遇に置かれる
このようなわけで、劉備の家は本来、特に貧しい境遇でもなかったのですが、父を早くに亡くしてしまったために、残された母子は生活に苦労することになります。
劉備は母と一緒に靴を商い、敷物を編んで暮らしを成り立たせました。
一方で子どものころの劉備には、次のような挿話があります。
劉備の家の庭には大きな桑の木があり、遠くから眺めると、車の天蓋のように見えました。そして通りかかったある人が「いずれ、この家から貴人が出るだろう」と予言します。
幼い劉備自身も「俺はいつか必ず、こんな羽飾りのついた車に乗ってやるぞ」と元気に語っていました。羽飾りのついた車とは、皇帝の乗り物のことであり、劉備が子どものころから、大きな志を持っていたことが表されています。
とは言え、劉備が皇帝になるということは、現在の皇室に取って代わることを意味しますので、叔父おじの劉子敬から「お前、妙なことを言うものではないぞ。我ら一門を滅ぼすことになりかねん」とたしなめられています。
叔父の援助を受けて遊学する
このような事情で家が貧しかったので、そのままですと、劉備が世に出るのは難しい状況でした。
しかし十五才の時、叔父の劉元起から援助を受け、盧植の塾に遊学することになります。(本書における年齢の表記は、すべて数え年です)
盧植は各地の太守(郡の長官)を歴任し、反乱討伐で活躍した、文武両道の人物です。そして儒学に精通し、著作もしていました。
廬植は涿県の出身だったので、地元の子弟のために塾を開き、後進の指導にあたっていたのです。
ところで、叔父には劉備を援助する義務はなかったので、妻からどうして学資を出してやるのですか、とたずねられました。すると叔父は「あの子は、普通の子どもではないからだ」と答えました。
このように、劉備は若くして人から期待され、援助をしたいと思わせるだけの資質を示していたようです。また劉備の一族は、それなりに資力を備えていたことがわかります。
公孫瓚と親しくなる
劉備は盧植の弟子になると、そこで知り合った公孫瓚と友人になりました。この出会いが、後に劉備が立身する上で、大きな影響をおよぼすことになります。
公孫瓚は幽州の地方豪族の家に生まれたのですが、母親の身分が低かったので、冷遇されました。このため、少年時代は苦労したようです。
やがて遼西郡の役所に勤めはじめ、太守直属の文官になります。そこで能力を発揮するうちに、才能を高く評価されました。
公孫瓚は弁舌がたくみで記憶力がよく、各部署から上がってくる報告をわかりやすく、まとめて説明することができました。このために太守から、見込みのある若者だとみなされるようになります。
そして公孫瓚は太守の娘婿となり、援助を受けて遊学する機会を与えられたのでした。
劉備の境遇と似たところがあり、このためもあってか、両者は親友になります。劉備の方が年下だったので、公孫瓚に兄事しました。
盧植のような、高名な人物の塾には若い人材が集いますので、劉備はここで人脈を築き、世に出るきっかけをつかむことになります。
人気者となり、資金を得る
劉備は勉学にはさほど熱心でなく、馬に乗り、音楽を聴くことを好みました。そして着飾ることも好きだったので、明るく、享楽的な性格だったことがうかがえます。
ちなみに馬術も音楽も、士人が身につけるべき教養に含まれていましたので、塾で何も学んでいなかった、ということではないようです。
劉備は身長が七尺五寸(約173センチ)でした。この時代では、長身の部類です。そして手は膝まで届き、自分の目で見れるほど耳が大きい、という外見的な特徴を持っていました。
また、人にへりくだって接することができ、軽率に強い感情を表に出すことがありませんでした。そして人付き合いを好み、豪傑や侠客たちと盛んに交際します。
このようなありさまだったので、若者たちは競って関わりを持ちたがり、劉備は人気者になりました。
そんな劉備に注目したのが、涿郡で馬の売買をしていた豪商たちでした。
張世平と蘇双という二人の商人は、大金を携たずさえて涿郡で商売をしていたのですが、劉備を見て「ただ者ではない」と思い、資金を援助することにします。
彼らの目には、劉備はなにか大きなことをやりそうな若者だと映ったようです。
劉備はこうして元手を手に入れると、仲間を集めるために使いました。
叔父といいこの商人たちといい、若き日の劉備は、とかく支援者に恵まれています。
黄巾の乱
このような経緯で、劉備が活動の基盤を手に入れたころ、後漢の統治は大きく乱れつつありました。各地で反乱があいつぎ、討伐軍が派遣され、ひとまず抑えこまれてはいましたが、国勢はじわじわと衰える一方でした。
これは当時の皇帝である霊帝が、公正な政治を行う気がない、宦官たちに大きな権力を与えていたのが原因です。
宦官は、去勢された上で皇族に仕え、身の回りの世話をする者たちです。直に接することができたため、時に皇族に気に入られ、引き立てを受け、高い地位が与えられることもありました。
霊帝お気に入りの宦官たちは、賄賂を贈ってきた者や、近親者ばかりを重用して高官の地位を割りふり、能力や人格を基準にしませんでした。
このために悪臣がはびこるようになり、政治の質が落ち、でたらめな法の運用や、重税に苦しむ民が増えていきます。
また、霊帝自身もひたすら贅沢にふけり、宮殿を造営するために増税するなどしており、苦しめられていた民の暮らしを、かえりみることはありませんでした。
つまるところ、霊帝は暗君だったのです。
このように、君臣ともに腐敗していたので、各地で反乱が起きやすくなり、体制がゆさぶられていったのでした。
一八四年に発生した黄巾の乱は、その中でも最大規模のもので、数十万の民衆が参加しています。
これは太平道という新興宗教が、朝廷の求心力の低下に乗じて信者を集め、ついには世を転覆させようと、行動を起こしたものでした。
「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というのが、太平道が掲げたスローガンです。
古代の中国では、王朝はそれぞれに循環する色を備えているとされ、その変化が時代の移り変わりを表現していました。そして漢王朝の次代の色は「黄」だと考えられていたのです。
このために「もうすぐ黃の時代(黄天)が来るから立ち上がろう」と訴え、頭に黄色い頭巾(黄巾)をつけてユニフォームにすることで、結束を高めたのです。そうして反乱に正当性を与え、次代の権力を掌握しようとはかったのでした。
(太平道の信者たちは「黄帝」という古代の伝説的な王を崇拝していたので、「黄」を重視したのだという説もあります)
この反乱の中心人物は張角で、太平道の教祖です。こういうしかけやスローガンを考えたあたり、なかなかの知恵者だったと言えます。
これに弟の張宝と張梁も加わり、豫州と冀州、そして劉備が住む幽州でも、官軍との戦いが発生しました。
義勇軍を結成し、黄巾の討伐に参加する
このような状況になると、劉備は仲間たちとともに義勇軍を結成し、黄巾の討伐に参加することにしました。反乱が多発する状況は、武勇によってひと旗あげようとする若者たちにとっては、絶好の機会でもあったのです。
この時に関羽と張飛が、劉備とともに立ち上がっています。
関羽は河東郡解県の出身で、別の土地から涿郡に流れてきていました。
劉備のところに来る前に何をしていたのかは不明ですが、地元には塩が取れる湖があったので、塩の売買に関わっていた、という伝説があります。
一方、張飛は涿郡の出身で、劉備と同郷でした。
彼もまた、劉備と出会う前の経歴は不明で、この時までは無名の存在でした。力のある家の出身でもなく、野に転がった原石のようなものだったのです。
劉備は集まった仲間たちの中から、特に関羽と張飛を見出し、自分の護衛をするようにと告げました。
それだけでなく、寝起きをともにし、実の肉親であるかのように温かく接します。関羽と張飛は劉備のふるまいに深く感じ入り、この後の生涯を通し、劉備に絶大な忠誠を誓い続けることになりました。
おそらく劉備は、関羽と張飛の飛び抜けた武勇の才を発見し、自分の部隊の中核にするために、大事に扱うべきだと考えたのでしょう。そしてこの二人は単に強いだけでなく、厚く義心を備えていることにも、気がついていたのだと思われます。
この三者の強固なつながりが、劉備が蜀を建国するにあたり、大きな原動力となっていきました。
この時に、外交面で活躍する簡雍も加わっているのですが、彼もまた流転が激しかった劉備に、最後までついていっています。
劉備には、どれだけ厳しい状況に置かれようとも、ついて行きたいと人に思わせるだけの、魅力があったようです。
劉備は仲間たちを連れ、校尉(官軍の指揮官)である鄒靖に従い、黄巾党と戦いました。
黄巾党は蜂起してから一年ほどで、首謀者である張角が病死し、弟たちが討ち取られたので、弱体化していきます。
黄巾党は農民を主体として構成されていましたので、数こそ多かったものの、官軍に対抗できるほどの戦力は、整えられなかったのでした。
この討伐には、曹操や孫堅も参加しており、それぞれに武功を立てています。
また、劉備の師である盧植は北中郎将として、官軍の主力を担い、黄巾党に連戦連勝しました。
しかし、監督にやってきた役人に賄賂を渡さなかったために、解任されてしまっています。この様子からも、当時の朝廷の腐敗ぶりが、ひどいものだったことがわかります。
このため、黄巾党を退けても、世は治まりませんでした。
黄巾党の勢力が弱まると、今度は幽州の南にある青州で、張純という男が反乱を起こしました。
劉備は有力者の推薦を受け、こちらの討伐においても官軍に随行し、武功を立てています。推薦を受けたことから、劉備の武勇と兵団の強さが、世に認められていたことがわかります。
この功績によって、劉備は中山郡安喜県の尉に任命され、はじめて官職につきました。尉とは、治安維持のために働く武官のことです。いわば警察署長であり、駐屯する部隊長も兼ねたような地位でした。
義勇軍あがりである劉備が最初に就任するのには、適した職だったと言えます。
初めて地位を得るも、すぐに失う
しかし郡の督郵が安喜県にやってきた時に、劉備は事件を起こします。
督郵は官職名で、県の役人の働きぶりを査定するのがその役目でした。(この督郵の個人名は伝わっていません)
劉備は督郵と面識があったので、宿舎におもむいて面会を申し入れますが、病気だと嘘をつかれ、断られてしまいます。
これより以前から、軍功によって県の高官になった者を選別し、地位にふさわしくないと判断された者は、免官されることが決まっていました。
劉備は自分も免官になるのではないかと気にしていたのですが、督郵に面会を断られたことで、いよいよ確信を抱きます。そして仮病を使った督郵に恨みを抱きました。
劉備は役所に戻ると、役人たちを引き連れて宿舎に押しかけ、内部に侵入します。そして「私は太守から督郵を逮捕するよう、命令を受けている」と称し、督郵を縛りあげました。
そのまま引きずりだして県境まで連れていき、自ら印綬(身分の証)を外して督郵の首にかけます。
こうして官位を捨てた劉備は、怒りのままに督郵を杖で何度も打ちすえました。やがて督郵が哀願したので許してやり、そのまま逃亡します。
この時の劉備は、辞めさせられるくらいなら自分から辞めてやろうという、やぶれかぶれな気持ちになっていたようです。
演義では、劉備は品行方正な人物として描かれていますので、これは張飛がやったことになっています。
しかし正史では、劉備には乱暴な面もあったことが記されています。
乱世において、自前で部隊を結成し、戦いの中に身を置くような人物でしたので、実際にはただの良い人ではありえなかった、ということなのでしょう。
じわじわと地位が高まっていく
その後の劉備は、流転を続けました。
官軍に同行している途中、徐州の下邳で賊に遭遇すると、力戦して戦功を立てます。この働きを評価され、下密県の丞(副長官)に任命されました。
しかしまたも官を辞任し、やがて高唐県の尉になって復職します。そしてしばらくすると、県令に昇進します。
これによって、祖父の地位に並ぶことになりました。
劉備は好きなように、官職についたり辞めたりをくり返していましたが、それでも地位が高まっていることから、反乱が多発する中、各地で劉備の力が必要とされていたことがわかります。
あるいは劉備は、ひとつのところにとどまって、真面目に役人として勤めるよりも、あちこちを転戦した方が、自分と仲間たちの才能を活かすことができ、出世にもつながりやすいと判断していたのかもしれません。
朝廷で政変が起きる
こうして劉備が、地方で存在感を高めつつあったころ、中央では大きな政変が発生していました。
一八九年に霊帝が崩御すると、その子の劉弁が即位します。
そして伯父である何進が大将軍として、権勢をふるうようになりました。
後漢の大将軍は国軍を統率するだけでなく、諸官の上に立ち、国政をも担う極官の地位です。これには何進のような外戚(皇帝の母の親族)が就任することになっていました。
この何進の側近には、名門出身の袁紹がいたのですが、袁紹は世を乱す原因である宦官たちを討つようにと、盛んに何進に勧めていました。
霊帝は宦官と深く結びついていたので、彼らの排除は困難でした。しかし代替わりが発生したので、宦官たちから権力を奪う好機が訪れていたのです。
袁紹に説得されるうちに、何進もその気になりますが、妹の何太后(劉弁の母)と弟の何苗に反対されたので、実行できないでいました。
宦官の中にも優れた者や、良識を備えた者もいるのに、全員をまとめて排除しようとするのはおかしい、というのが何太后たちが反対した理由です。
このために、何進は地方から董卓や丁原といった将軍たちを都に呼び寄せ、軍事力を高めます。その上で宦官と、彼らに味方する者たちを圧迫しました。
しかし、これに危機を感じた宦官たちは、何進をだまして宮殿に呼び寄せ、暗殺してしまいます。
この事件を知った袁紹と、いとこの袁術は、兵を集めて宮中に乱入しました。そして宦官たちを殺戮してまわり、強引にクーデターを決行します。
この時に殺害された宦官は二千人にものぼり、中にはひげがないという理由で、間違われて殺された者もいました。宦官は去勢していたので、ひげが生えなかったのです。
そして中には、服を脱いで見せることで、ようやく殺されずにすんだ者もいました。
この様子から、袁紹たちは手当たりしだいに宦官を討ち、二度と権勢を持てないようにしようとしたことがうかがえます。
この際に、かろうじて生き残った宦官たちは皇帝と、その弟を連れ、宮殿から逃亡しました。
そして川岸にまでたどりついたところで、追いつめられた宦官たちは、入水して自害します。このために皇帝たちは、おともが誰ひとりいない状態で、野にとり残されてしまいました。
それを董卓が保護して都に戻り、彼が権力を獲得する機会を得ます。
董卓が台頭する
董卓は都に入ると、自身が権力を握る上で障害になる者たちを、次々と倒していきました。
まず、混乱に乗じて車騎将軍の地位にあった何苗を葬り、その軍勢を吸収します。車騎将軍は大将軍に次ぐ、国軍の最高幹部です。
また、丁原の腹心である呂布を寝返らせ、丁原を殺害させます。董卓はこの部隊も傘下に置きました。
こうして都の近辺にいる軍勢をすべて掌握すると、董卓は朝廷を支配します。そして辺境の将軍から成り上がり、一躍大臣の地位を手に入れました。
ここまではまだ、ただの政変でした。しかし董卓はここから、後漢という国家そのものを破壊していきます。
董卓は手はじめに、皇帝を自分の思うがまま、操りやすい存在に変えるため、劉弁を廃位し、弟の劉協を皇帝にしました。
劉協は「献帝」と呼ばれましたので、以後はそう表記します。
劉弁には何氏という後ろ盾がありましたが、献帝には有力な親族がいなかったため、董卓が自由に扱いやすい存在でした。このために、董卓は劉弁を廃し、献帝を帝位につけたのです。
しかし皇帝の位を臣下が左右するのは、度外れた越権行為であり、これが董卓への反感を招くことになりました。
反董卓連合が結成される
一方で、董卓は刑罰によって人々をおどし、ささいなことでもあっても、恨みを抱いたら必ず報復しました。このために朝廷の人々は、身の安全を確保することすらも難しくなります。
ある役人などは、董卓に面会した際に、帯剣したままの姿だったことをとがめられ、その場で董卓に叩き殺されてしまいました。この事件によって、都の人々は恐怖に包まれます。
董卓は自分の勢威を見せつけるために、わざと過剰に暴力を用いたのでした。
これに加え、董卓は軍勢を率いて都から外出した際に、罪のない民に対しても、残虐なふるまいをしています。
董卓の軍勢は、祭りのために集まっていた民の姿を見かけると、襲撃をかけました。
そしてその場にいた男をすべて殺害し、頭を切り落とさせます。さらに、この者たちが使っていた乗り物や牛を奪い、婦女や財宝をのせ、それを連ねて都に戻ってきます。
その上で「賊を討伐したぞ」などと言いふらし、自らを祝賀させました。また、さらってきた婦女を兵士たちに、妾として下げ渡します。
これ以外にも、董卓は宮女や公主(皇族の女性)に暴行を働くなどもしており、やがてそのような、たび重なる横暴なふるまいが、世に知れ渡るようになっていきました。
董卓は権力を握ったものの、世をまともに治める気がなく、さながら蛮族の征服者のようにふるまいました。董卓は長らく、辺境において異民族と戦っていましたが、そのうちに 心がすっかりと、その地の流儀に染まってしまっていたようです。
皇帝を擁立して権力を握るというやり方だけが、彼が漢民族の一員であることを、表しているかのようでした。
このような董卓の行いが重なった結果、とても従えないと判断した袁紹や袁術、曹操らは都を抜け出し、地方に出て勢力を築きました。そして袁紹が盟主となり、反董卓連合軍を結成し、董卓の打倒と政権の奪取を目指すようになります。
こうして黄巾の乱に続き、後漢の内部で大規模な紛争が発生しました。
黄巾の乱は農民を主体とした反乱でしたが、今度は朝廷の高官同士の争いとなったため、国家が深刻な分裂状態におちいることになります。
これは一九〇年のことでした。
董卓の討伐に加わるも、敗れて公孫瓚を頼る
霊帝が崩御する以前、どういった経緯でかは不明ですが、劉備は都である洛陽(らくよう)に滞在していた、という話があります。
そして曹操とともに豫州の沛国におもむき、そこで兵を募集しました。この土地は曹操の故郷で、劉備の祖先である、劉邦の出身地でもあります。
やがて霊帝が崩御すると、天下は大きな混乱にみまわれたので、劉備もまた兵をあげ、董卓の討伐に参加しました。曹操や孫堅も連合に加わっており、後に三国を形成する面々が、この時は同じ勢力に属しています。
しかし劉備は、董卓軍との戦いでは活躍した記録がなく、やがて撃ち破られています。
そして一九一年になると、幽州で勢力を築いていた、旧友の公孫瓚を頼って落ちのびました。
公孫瓚はこの時、奮武将軍の官位と、薊侯という爵位をも得ており、おおいに出世を遂げています。 そして幽州を基盤とし、隣接する冀州や青州にも勢力を伸ばしつつあり、有力な群雄のひとりになっていました。
公孫瓚は劉備を迎え入れると、上表(朝廷への申請)し、別部司馬に任命します。別部司馬は、別働隊を率いる地位でしたので、自前の兵団を持ち、指揮能力をそなえた劉備には、適した身分だったと言えます。
こうして劉備は敗北の痛手から立ち直り、公孫瓚の元で新たな活動を開始しました。
董卓が長安に遷都する
一方、董卓は連合軍によって圧迫を受けると、やがて不安にかられるようになりました。
このために董卓は、献帝と都の住人たちを、強制的に長安に移住させ、西に遷都します。そうすることで、東に集まっていた連合軍の圧力から、逃れようとしたのでした。
また、董卓の根拠地は西の果ての涼州でしたので、そこに近い長安の方が都合がよかった、という事情もありました。
この時、董卓は洛陽を徹底的に略奪し、宮殿を焼き払い、代々の皇帝の墓を暴いて財宝を持ち去ります。この結果、都はすっかりと荒廃してしまいました。
そして連合軍に利用されることを恐れ、廃位した劉弁と、母の何太后を暗殺します。こうして何氏の一族は何進・何苗・何太后らをあいついで失い、すっかりと権力を喪失しました。
董卓は自身の欲望を満たすため、一年にも満たない期間で、内乱を生じさせ、首都を略奪して破壊し、皇帝を廃位して殺害する、という蛮行を働いたことになります。
つまりは後漢という国家を成り立たせていた基盤を、完全に崩壊させたのでした。
このようにして、董卓というたった一人の暴君のために、後漢王朝の寿命は、いちじるしく縮まってしまいます。
このため、「董卓は狼のように欲が深く、心がねじ曲がっていた。そして暴虐で、仁愛の心がなかった。書物に記録されている範囲において、これほどの人間は他にいない」と評されています。
この結果、洛陽を手に入れて維持する価値がなくなり、董卓という共通の敵を失った連合軍は、しだいに分裂していきました。
そうなると諸将は、野心をむき出しにし、他人を押しのけ、己の勢力を伸ばそうと努めるようになります。そして同盟を結んだり、敵対したりをくり返して争い初め、収拾がつかなくなっていきました。
袁紹などは、董卓に擁立された献帝の存在を認めず、独自に皇帝を擁立しようとまでしています。
こうして朝廷の権威は地に落ち、完全な乱世に突入しました。
袁紹との戦いに加わり、平原の相になる
このような状況下で、公孫瓚は隣接する冀州で勢力を伸ばした袁紹と対立し、戦っていました。
劉備は公孫瓚の命を受け、青州刺史(長官)の田楷とともに、袁紹軍と戦います。
すると、劉備はたびたび戦功を立てたので、公孫瓚から試しに、平原県令の代行に任命されました。
劉備はここで治績をあげたので、やがて平原国の相に任命されます。
ここで言う「国」とは、郡と同じくらいの規模の行政区分です。郡と異なるのは、国は王族が領主だったことでした。
そして「相」は領主の補佐をしつつ、国を統治する役職です。
相には「たすける」という意味があり、この文字がつく「丞相」や「宰相」といった地位は、いずれも主君を補佐する役割であることを示しています。
郡や国には数十万程度の人口がありましたので、劉備は初めて広い領域の統治に携わったことになります。
このようにして、劉備はついにひとかどの地位を得ることになりました。盧植の塾で公孫瓚と親しくなっていたことが、大きな恩恵をもたらしたのです。
なお、この時に関羽と張飛が別部司馬に任命され、それぞれに部隊を指揮するようになりました。これ以後も劉備の出世にともなって、二人の地位もまた向上していきます。
そしてこの時期に、新たに趙雲が劉備の配下に加わっています。
趙雲は公孫瓚の配下だったのですが、劉備が青州に向かう際に、命令を受けて随行しました。そして主騎(騎兵隊長)として側で働くうちに、劉備と親しくなり、やがて仕えることになったのです。
趙雲もまた関羽や張飛と同じく、これ以後は劉備に仕え続け、その武勇を発揮することになりました。
刺客を退け、善政をしく
こうして劉備は出世を遂げましたが、それにともない、事件が発生します。
平原の民である劉平は、かねてより劉備のことを嫌い、軽んじていました。
にも関わらず、劉備が平原を統治するようになったので、その支配下に入ることを嫌い、刺客を送って劉備を暗殺しようとします。理由は不明ですが、劉平はよほどに劉備のことが憎かったようです。
劉備はそうとは知らず、たずねてきた刺客を手厚くもてなしました。すると刺客は劉備を殺害するのが忍びなくなり、ありのままを打ち明けて立ち去ります。
このように、刺客ですらも心変わりさせてしまうほどに、劉備は人をよく厚遇し、その心をとらえる力が強かったのでした。
このころ、各地が戦乱に加えて飢饉にもみまわれたので、民は苦しんでいました。そして徒党を組み、略奪にはしる者が増えていき、治安が乱れきった状況になります。
このため、劉備は武力を用いて外からの侵入を防ぎ、領内が豊かになるように努め、民に恩恵を施しました。
そして身分が低い相手ともわけへだてなく付き合い、会食の機会があった時には、みなと同じ席につき、同じものを食べ、地位が高まったからといって、おごりたかぶることはありませんでした。
このようにふるまったので、平原においても、劉備の人気が高まっていきます。
劉備には武勇に加え、善政をしく能力もありましたので、乱世において、統治者に求められる資質を兼ね備えていたのでした。
この時に得た評判が、やがて劉備の身分を、さらに上昇させることになります。単に戦いに強いだけでなく、統治者としても秀でているという評価を、世から受けたからです。
孔融から救援要請を受ける
この時、青州の北海国は孔融が治めていました。孔融は儒教の創始者である孔子の子孫で、広く存在を知られた名士でした。
ある時、孔融の居城は黄巾の残党の襲撃を受け、包囲されてしまいます。青州のあたりではまだ黄巾党が勢力を保っており、あなどれない存在になっていたのでした。
孔融が危機におちいると、孔融から恩義を受けていた太史慈という勇士が駆けつけます。そして劉備に救援を求めるための、使者になることを申し出ました。
孔融がこれを承認すると、太史慈は包囲を突破し、劉備の元にたどり着きます。そして劉備に面会すると、次のように言いました。
「孔融どのは包囲され、孤立しており、明日にでも滅びかねないほど、危機的な状況におかれています。あなたは仁義を行われ、人の危機を救ってくださることで、世に名を知られていらっしゃいます。孔融どのはあなたをお慕いしており、このために私を遣わしたのです。あなただけが、孔融どのをお救いいただけます」
これを聞くと劉備は表情を改め、「孔融どのがこの広い世界において、私がいることをご存知だったとは」と述べ、喜びます。そして要請に応じ、三千の援軍を送って孔融を助けました。
この軍勢が到着すると、黄巾党は包囲を解いて逃げ去り、孔融が救出されます。
劉備はこのころには、孔融のような著名人にも名を知られ、頼りにされるようになっていたのでした。
こうして劉備は、名士層からも好感を持たれる存在となり、やがてさらなる引き立てを受けることになります。
徐州をめぐる攻防
徐州から救援を求められる
一方このころ、青州の南にある徐州では、刺史の陶謙が曹操に攻め込まれ、危機におちいっていました。
徐州には曹操の父親が住んでいたのですが、盗賊に襲われて殺害される、という事件が発生しています。曹操はこれを知ると激怒し、治安を保てなかった陶謙を恨み、激しく攻撃をしかけたのでした。
曹操は陶謙の軍勢だけでなく、徐州の民衆をも殺戮したので、河が死骸で埋まるほどの惨状をていします。曹操は感情のたがが外れると、何をしでかすかわからないところがあり、このために恐れられました。
陶謙はたまらず使者を送り、田楷に救援を求めます。これを受け、劉備は田楷とともに徐州に向かうことになりました。
劉備はこの時、千人あまりの私兵と、烏丸族からなる騎兵隊を率いていました。烏丸族は幽州の北方に住む騎馬民族です。
それに加え、飢えた流民たち数千人を配下に組み入れ、人数を増やしてから徐州に到着します。
陶謙は劉備を気に入ったようで、丹陽出身の兵を四千ほど与えました。丹陽は精兵を輩出する土地として知られていましたので、この措置によって、劉備の兵団はおおいに増強されます。
陶謙は年老い、衰えはじめていたこともあって、劉備を頼りにしました。このため、劉備は徐州に残留することにします。
厚遇されたこともありますし、劉備の性分からして、曹操によって追いつめられ、弱っていた陶謙を置き去りにする気にはなれなかったでしょう。
こうして劉備は公孫瓚の勢力から離れ、陶謙に属することになります。とは言え、公孫瓚と陶謙は同じ陣営に属していましたので、さほどに支障はなかったと思われます。
これは一九三年のことでした。
兗州が呂布に襲撃される
曹操の本拠は、徐州の西隣にある兗州でした。
ここから徐州に遠征をしていたのですが、本拠を空けている間に、長安から流れてきた呂布に、その大半を奪われてしまいます。
兗州には、配下の陳宮が留守として残っていたのですが、彼はひそかに曹操への叛意を抱いており、近くに呂布がやってきたことを知ると、引き込んで反乱を起こしたのでした。
このため、曹操は徐州を攻めているどころではなくなり、撤退します。
なお、このころにはすでに、呂布の裏切りによって、董卓は討たれていました。
呂布は董卓の侍女と密通をしていたのですが、これを董卓に知られると、処刑されるのではないかと恐れます。
そんな時、董卓打倒を計画していた王允(おういん)に、仲間になるように誘われました。すると呂布は渡りに船とばかりにこれを受け入れ、董卓を討つことにしたのです。
呂布は配下に命じ、宮殿に参代しようとしていた董卓の行く手をふさがせました。そして「詔(皇帝の命令)があるぞ!」と宣言しつつ、董卓を刺殺します。
こうして呂布は丁原に続き、二人目の主をも殺害したのでした。
そして呂布と王允は権力を握りかけますが、李傕や郭汜など、董卓軍の残党に攻められて敗北しました。このために呂布は長安から逃げ出し、東方へと流れてきていたのです。
西で起きた政変が、東の情勢にも、大きな変化をもたらしたのでした。
劉備が豫州刺史になる
一九四年に曹操が去ると、陶謙は上表し、劉備を豫州刺史に任命しました。
刺史とは、州の長官に当たる存在です。厳密には、州に属する各郡の太守たちが、不正を働かないようにと監督するのがその役目でした。
一州の人口は百万単位であり、劉備はさらなる高みへと登ったことになります。
ちなみに、このころの豫州は、袁術の影響下にある土地でした。
陶謙は袁術の勢力に加わっていたのですが、離脱を考えるようになっていました。このために劉備を豫州刺史に任命し、袁術を牽制させる意図があったようです。
このような事情でしたので、劉備の豫州への影響力は、限定的なものだったと考えられます。
ともあれ、劉備は小沛に駐屯し、陶謙を助けることになりました。小沛は徐州にある拠点でしたが、豫州に近かったので、劉備にとっては利便性の高い場所だったのです。
徐州の統治を任される
やがて陶謙は病が重くなったので、別駕(側近)の麋竺を呼び、「この州に安寧をもたらすことができるのは、劉備だけだろう」と告げ、自分の後は劉備に任せるようにと伝えます。
陶謙が亡くなると、麋竺は州民たちを連れて劉備を迎えにいき、陶謙の遺志を託そうとします。しかし劉備は、これを引き受けませんでした。
すると次に、下邳の名士である陳登が劉備を訪ね、「ただいま、漢王朝は衰退し、国家が傾き、転覆つつあります。功業を立て、大事を成し遂げるのは、今日をおいて他にありません。徐州は豊かで富が蓄えられており、しかも百万の人口を備えています。その地の人々があなたに身を屈し、治めてほしいと望んでいます」と伝えました。
すると劉備は「袁術がここから近い寿春にいる。この人は四代続いて三公(大臣)を輩出した名門の出身で、国中から慕われている。この州は彼が統治するのがよいだろう」と答えました。
陳登はこれに反論します。
「袁術は傲慢で、乱を治めることができるような器の持ち主ではありません。いまこの州では、あなたのために歩兵と騎兵を合わせ、十万の軍勢を集めようとしています。上は主上(皇帝)をお助けし、民を救い、五霸(周王を補佐し、天下の情勢を安定させた諸侯)と同じ偉業を達成することができます。下は領地を与えられ、国境を守ることで、功業を史書に記録される存在となるでしょう。もしあなたがこの申し出を受けられないのであれば、私にはもはや、あなたにお聞かせする言葉がありません」
これに加え、先に劉備が救援した孔融もまた、徐州を治めることを勧めます。
「袁術は国家を憂い、私欲を後回しにできるような男ではありません。彼は墓に納められた骸骨のようなものであり、気にかけるほどの存在ではありません。いま、民衆は優れた人物が統治者となることを望んでいます。天があなたに機会を与えているのに、これをつかまなければ、後悔することになるでしょう」
このようにして、各方面から要請を受けたことで、劉備は断りきれなくなり、徐州刺史に就任することになりました。
サンプルはここまでです。