曹彰は字を子文といい、曹操の子供として誕生しました。
曹丕が兄で、曹植が弟です。
生年は不明となっています。
若い頃から弓術や馬術が得意で、筋力が人並み外れて優れていました。
そして猛獣と格闘することができ、険しい道も平然と登ることができました。
曹操の子供たちの中では、最も頑健な肉体を持って生まれたのだと言えます。
曹操に学問に励むように言われるも、従わず
曹彰はたびたび曹操の征伐のお供し、その度に激しい気性を示しました。
このため曹操はある時、彼の気性を抑えるため、次のように言いました。
「おまえは書物を読んで聖人の道を慕うことなく、汗をかいた馬に乗り、剣を振り回すのを好んでいる。
それは匹夫(つまらない男)の行いでしかなく、人から尊重されるようなふるまいではない」
そして曹彰に『詩経』と『尚書』といった儒教の教典を読むことを課しました。
【曹彰に学問を学ばせようとした曹操】
すると曹彰は、側近に向かってこう言いました。
「男子は衛青や霍去病のように、十万の兵を引き連れ、砂漠を馳せ巡り、蛮族追い立てて功績を挙げ、称号を打ち立てるべきだ。どうして学者なんかになれよう」
衛青や霍去病は、前漢の時代に匈奴という騎馬民族の討伐に活躍した将軍です。
このように、曹彰は曹操の子供としては珍しく、武に偏った若者として育っていきました。
武将になることを希望する
曹操はある時、子供たちに好きなことをたずね、それぞれに希望を述べさせました。
すると曹彰は言いました。
「武将になるのが望みです」
曹操が「武将になってどうするのだ」とたずねたので、曹彰は次のように答えました。
「鎧を着て武器を手にし、危険を前にしてひるまず、士卒の先頭を切って戦います。
そうすれば必ず恩賞が行われ、刑罰は信義にもとづいて実施されるでしょう」
すると曹操は大笑いをし、曹彰を軍事に用いることにしました。
その受け答えが、武将となるのにふさわしいものだと認めたのでしょう。
やがて216年になると、曹彰は鄢陵候に取り立てられています。
反乱の討伐に向かう
218年に北方で、代郡の烏丸族が反乱を起こすと、曹操は曹彰を北中郎将に任命し、驍騎将軍を代行させました。
こうして軍権を与えた上で、反乱の討伐を命じます。
出発に際し、曹操は曹彰を次のように戒めました。
「家にいるときは父と子であったが、軍事を担当すれば君主と臣下である。
常に法によって事を行え。
なんじ、そのことを心せよ」
襲撃を受けるも撃退する
曹彰が北に向かい、琢郡の境界に入ると、反乱軍の数千騎が突如として襲撃してきました。
その時、兵はまだ集結しておらず、曹彰の周囲には歩兵千人と騎馬が数百匹いるだけでした。
曹彰は田豫の計略を採用し、固く守りを固めて敵の隙をうかがったので、やがて敵は退却し、ちりぢりになりました。
曹彰はそれを追撃し、自ら戦闘に加わって蛮族の騎兵に矢を射かけましたが、その弦の音が響くたびに、次々と蛮族は撃ち倒されて行きました。
この戦闘は半日以上にも及び、曹彰の鎧には数本の矢が突き刺さりました。
しかし曹彰の気勢が衰えることはなく、勝ちに乗じて逃げる敵を追撃し、桑乾にまで到達しています。
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