蕭何(しょうか)は劉邦を世に送り出し、彼が漢の皇帝になるまでその覇道を支えた名臣です。
統治能力に優れており、項羽との戦いに苦戦する劉邦に兵員や軍需物資を供給し続け、継戦能力を維持するのに貢献しました。
それ以外にも韓信の才能を見出して大将軍に推薦するなど、人材登用の面でも活躍しています。
戦いには参加しなかったため、やや地味な存在ではありますが、もしも蕭何がいなければ、劉邦が中国大陸の覇者になることもなかったでしょう。
この文章では、そんな蕭何の生涯について書いてみます。
【蕭何の肖像画】
沛県に生まれ、役人となる
蕭何は劉邦と同じ沛県の出身で、秦帝国が大陸を支配していた頃には、その現地採用の役人となっていました。
決して身分は高くありませんでしたが、真面目な性格で有能であったため、上役から評価され、地元の住民たちからも慕われるようになっていきます。
この時の部下に、後に漢の丞相(じょうしょう。首相)になる曹参(そうしん)がおり、彼もまた有能な役人として役所に勤務していました。
蕭何が役所で実績と経験を積み上げていた頃、沛では劉邦という男が名を売るようになっていきます。
劉邦に目をかける
劉邦が実家が農家だったのですが、その仕事を手伝わず、日々をぶらぶらとして暮らしているような男でした。
侠客を気取っていましたが、結婚して子どもが生まれてもまともに働かないような、だらしのない男でもありました。
しかし劉邦には不思議と人望があり、酒場に姿を表すと、彼に会いに大勢の男たちが現れて満席になる、という様子を見せていました。
このため、いずれ劉邦は何かの役に立つ男なのかもしれないと思い、蕭何もまた劉邦に目をかけるようになっていきます。
具体的には、劉邦が旅に出る際に多額の餞別を贈るなどして、友好的な関係を作って行きました。
始皇帝が死去し、動乱の時代が訪れる
史上初めて中国大陸の統一に成功した始皇帝は、苛烈な支配を続けた後、紀元前210年に死去しました。
翌209年には陳勝と呉公という人足の引率役が秦への反乱を起こしますが、これが間もなく大陸中に飛び火し、戦乱の時代が訪れます。
秦はそれまでに各地に割拠していた国々を攻め滅ぼしていたため、旧貴族たちに恨まれており、そのうえ法が厳格でありすぎたため、民衆たちの不満も募っていたのです。
このため、始皇帝が死去したとたんに、各地で反乱の火の手があがることになりました。
沛の県令が蕭何に対応を相談する
その影響は沛の地にも及び、秦から派遣されていた県令が動揺し、蕭何と曹参に対応策を相談しました。
沛でも反乱が起きれば、秦から送り込まれているこの県令などは、一番に標的となって殺される可能性が高かったからです。
これに対して蕭何は「県令は秦からやって来た方ですので、地元の者たちには信用されません。人気のある劉邦を頭領にして沛の者たちを従え、反乱軍に参加すべきです」と進言します。
これが劉邦が初めて表舞台に出るきっかけになりました。
この時の劉邦は人足の引率役を放り出して逃亡している時期であり、秦からすれば犯罪者でした。
しかし蕭何は乱世では劉邦の持つ人望は優れた武器となり、人心を束ねて一個の勢力を形成する上で役に立つだろうと考えたようです。
県令はこの助言を受け入れ、劉邦を召喚して沛に迎えることにします。
もしもこの時に蕭何が劉邦の名前を出さなければ、劉邦が後に皇帝になることもなかったでしょう。
【次のページに続く▼】