劉繇は後漢の末期において、揚州の刺史(長官)となった人物です。
もともとは、清廉かつ公正な官吏として知られた人物でしたが、戦乱の中で刺史となり、袁術と争うことになりました。
しばらくは勢力を保つものの、やがて孫策に敗れて揚州を追われ、間もなく病死しています。
しかしながら、後に遺族が敵対した孫策に保護されており、呉で栄えることになりました。
この文章では、そんな劉繇の生涯について書いてみます。
漢の皇室の血を引く家に生まれる
劉繇は字を正礼といい、156年に青州の東莱郡で誕生しています。
先祖は斉の孝王でしたが、この孝王は前漢を建国した劉邦の孫でした。
つまり劉繇は、漢の皇室の血を受け継ぐ家柄に生まれています。
劉邦の時代から数百年をへた、後漢の末期になっても実力のある家柄で、伯父の劉寵は四度も三公(最高位の大臣)に就任しており、兄の劉岱は侍中や兗州刺史を歴任しています。
劉寵も劉岱も、ともに飾り気がなく、他人への思いやりが深いことで知られ、人望を得ていました。
劉繇は単に血筋がよいだけでなく、優れた能力と人格を備えた一族に生まれたのだと言えます。
盗賊から叔父を取り戻して評判となる
劉繇が19歳の時、叔父の劉韙が盗賊に捕らえられ、人質になる事件が発生します。
劉繇はこの時に盗賊を退治し、叔父を無事に取り戻してきたことで、世間に名を知られるようになりました。
そして推挙を受けて郎中(近衛兵)となり、やがて下邑県の長に任命されます。
しかし、上役である郡の太守が、劉繇が名門の出身であることを利用しようとして接近してきたので、これを避けるために官位を捨て、郷里に戻りました。
劉繇は清廉さを重んじる性格でしたので、権勢をめあてに近づく人間を嫌ったのです。
済南国の相を罷免させる
劉繇は郷里に戻ると、やがて青州の役所に招かれ、済南国の行政監察の任を引き受けました。
劉繇が調査したところ、済南国の相(大臣)が賄賂をむさぼり、法を無視して悪政を行っていることが判明します。
この相は、皇帝の側近くに仕え、権勢を誇っていた中常侍(宦官の地位)の養子でした。
それゆえに、養父の権勢を頼みにして好き放題をやっていたのですが、劉繇はひるまずに朝廷に上表し、悪事を告発して彼を罷免させています。
朝廷への推挙を受ける
このような劉繇の硬骨さが評判を呼び、陶丘洪という人が、劉繇を朝廷に推挙してはどうかと、青州刺史に進言します。
しかしこの刺史は先に劉繇の兄・劉岱を推挙したばかりでしたので、ひいきをしていると思われるのではないかと考え、実行をためらいました。
すると陶丘洪は「もし刺史さまが、さきに劉岱どのを登用し、ついで劉繇どのを抜擢なされば、二匹の龍を御してはるか遠くまで行き、二頭の名馬に乗って千里の道を駆けるようなものです。すばらしいことではありませんか」と刺史に告げました。
この言葉から、劉岱・劉繇の兄弟は、世間から高く評価を受けていたことがうかがえます。
こうした経緯によって、劉繇は朝廷から地位を与えられそうになりましたが、やがて董卓が台頭し、戦乱の時代となったので出仕を断りました。
そして淮水(黄河と長江の間を流れる大河)のあたりに移住しています。
揚州刺史に任じられる
こうした経緯によって、劉繇は南方で避難生活を送っていましたが、朝廷は彼を放っておかず、やがて詔勅によって揚州刺史に任命しました。
劉繇は皇帝の勅命だったのでこれを受けましたが、当時の揚州は袁術が侵入しており、そのうえ、各地の太守が中央の統制を離れて独立割拠するなど、混沌とした状況になっています。
言わば、劉繇は火中の栗を拾わされたようなものでした。
このため、劉繇は袁術に占拠された揚州の州都・寿春を避け、長江を渡って南に向かおうとします。
すると現地の有力者である呉景と孫賁が劉繇を迎え、曲阿を拠点にするようにと勧めました。
呉景は亡き孫堅の義弟で、この時には丹陽太守の地位にありました。
そして孫賁は孫堅の甥で、孫堅が戦死した後に、その軍勢を引き継いだ人物です。
こうして劉繇は、孫堅ゆかりの者たちの支援を受け、ひとまず身を落ち着かせることができました。
しかし袁術は揚州全土を我が物とするため、やがて劉繇を敵視するようになり、危険な状況に陥ることになります。
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