華歆 清廉で徳を備えた魏の宰相

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華歆かきんは曹操・曹丕・曹えいの三代に仕えた政治家です。

清廉な性格で、徳も備えていたので、魏が建国された際に三公(大臣)に任命され、信任を受けています。

病がちだったので、たびたび引退しようとしますが、そのたびに引き止められ、その結果、生涯に渡って朝廷に仕えることになりました。

この文章では、そんな華歆について書いています。

平原に生まれる

華歆はあざな子魚しぎょといい、平原郡高唐こうとう県の出身です。

高唐はせいの地の栄えた都市だったので、遊び歩かない官吏はいないほどでした。

華歆は官吏になりましたが、休日に役所を出ると、家に帰って門を閉ざし、外出しないようにします。

そして議論は公平で、人を傷つけることは決してありませんでした。

このような人柄でしたので、世間に名を知られるようになっていきます。

陶丘洪を引き止める

同じ郡に陶丘洪とうきゅうこうという人物がいて、こちらも名を知られており、自分では華歆よりも優れた見識を備えていると考えていました。

ある時、州刺史(長官)の王芬おうふんが豪傑たちと共謀し、霊帝を廃位しようと計画します。

霊帝は長らく、側近の宦官とともに悪政を行っており、失望を買っていました。

王芬は当時、天下に高い名声を得ていましたので、思い切って皇帝を交代させようと企んだのです。

王芬はひそかに陶丘洪と華歆を呼び、計画をともに定めようとします。

陶丘洪が行こうとしたので、華歆はこれを止めようとして述べます。

「廃立は重大なことで、伊尹いいん(殷の重臣)や霍光かくこう(前漢の重臣)も困難に打ち当たった。王芬は粗雑な性格で武勇がない。この計画は決して成功せず、その災いは一族にまで及ぶだろう。行ってはならない」

陶丘洪は華歆の言葉に従い、行くのをやめました。

その後、王芬は予測通りに失敗し、自害しています。

これによって、陶丘洪はようやく華歆が優れていると認めました。

ちなみにこの計画には曹操も勧誘されましたが、断っています。

王芬は幅広く声をかけて回っていたようです。

中央に入るも混乱に巻き込まれる

華歆はやがて孝廉こうれんに推挙され、郎中(中央官僚の見習い)に任命されましたが、病のために官職を辞しています。

その後、霊帝が崩御すると、何進が幼い皇帝の政治を補佐するようになりました。

この時に河南の鄭泰ていたい潁川えいせん荀攸じゅんゆう、そして華歆らが招聘されます。

華歆は都に到着すると、尚書郎(政務官)に任命されました。

しかし、何進はやがて宦官によって暗殺され、董卓が台頭します。

董卓は権力を握ると、献帝を長安に移動させましたが、華歆はこの時に外に出て、下邽かけいの県令になりたいと望みます。

しかし、またも病のために行けませんでした。

華歆は病気がちの人であったようです。

袁術から離れる

華歆は董卓から離れるため、藍田らんでんを経由して南陽に至りました。

この時、袁術がじょうにいたのですが、華歆はそこで引き止められます。

華歆は進軍して董卓を討つようにと袁術に勧めますが、袁術がこれに応えることはありませんでした。

このため、華歆は立ち去ろうとしますが、その時、献帝が関東の情勢を安定させるため、太傅たいはく(皇帝の教育係)の馬日磾ばじつていを派遣していました。

華歆は馬日磾に召し出され、えん(属官)に任命されます。

東に向かって徐州に至ると、そこで詔勅を受け、華歆は豫章よしょう太守に任命されました。

こうして華歆は一郡を治める地位につくことになります。

揚州の支配者になることを断る

華歆の統治は清らかで落ち着いており、そして煩わしいこともありませんでした。

このため、官吏や民は感じ入り、華歆になつきます。

やがて一九七年になると、揚州刺史(長官)の劉繇りゅうようが死亡しました。

すると揚州の民衆は、華歆に主になってほしいと願いました。

しかし華歆は、時勢を利用した勝手な任命に応じるのは、人臣の道に外れるとして、これを引き受けませんでした。

このため、民衆は数ヶ月に渡って華歆の側にいましたが、最後まで引き受けず、立ち去らせています。

このことから、華歆には乱世に乗じようとしない節義があったことがうかがえます。

孫策を迎える

孫策が江東で勢力を伸ばすと、華歆はその用兵が巧みであることを知り、頭巾をかぶって迎えました。

孫策は、相手が長者だったので、賓客の礼をもって華歆を待遇しています。

この時に孫策は「太守の経歴や徳望・名声には、遠くも近きも心を寄せています。私は若輩ですから、子弟の礼を取るのが当たり前です」と述べた、とされています。

こうして華歆はひとまず、孫策の勢力圏に組み込まれました。

孫権の元を去る

その後、孫策はかたき討ちにあって死亡し、弟の孫権が後を継ぎます。

この時、曹操は官渡に滞在して袁紹と対峙していましたが、華歆を召し出すようにと献帝に上奏しました。

孫権は送り出したくないと考えていましたが、華歆は次のように孫権に述べます。

「将軍(孫権)は王命をたてまつり、曹公(曹操)と関わりはじめたばかりで、まだそれぞれの気持ちが固まっていません。私を将軍のために心を尽くせるようにしていただければ、必ず益があります。いまむなしく私を留めておられますが、無用の者を養うだけのことで、将軍にとっての良計ではありません」

華歆が曹操との間を取り持つと聞くと、孫権は喜び、華歆を行かせることにしました。

華歆を見送った賓客や旧友は千人以上もおり、贈り物は数百金にもなります。

華歆はこの地で慕われており、それがこれらの人数と、贈り物の量となって表されています。

華歆は断ることなくすべて受け取りましたが、ひそかにそれぞれに、識別のための印をつけておきました。

それから出発の際に、すべての贈り物を集め、賓客たちに言いました。

「諸君の気持ちを拒みたくなかったので、受け取ったものがこれほど多くなった。一台の車で遠くまで行くことを思うと、財宝を持っていることが災いになるかもしれない。願わくば、賓客たちにこのことを知らせてください」

これを聞いて、人々は贈った物を残していってもらうことにします。

そして華歆の徳に感服しました。

華歆は贈り物をしたいという気持ちは受け取っておき、それでいて財宝は自分のものにしませんでした。

生涯を通して、華歆は身辺を清らかにすることに気を配っており、これはその一環だったのだと言えます。

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