華歆 清廉で徳を備えた魏の宰相

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曹叡から引き止めを受ける

曹叡は華歆の引退を許しませんでした。

大きな会議を開くにあたり、散騎常侍さんきじょうじ(皇帝の側近)の繆襲きゅうしゅうを派遣し、詔勅を出して諭させます。

ちんは新たに諸事を司り、一日にして天下の政治に携わることになった。知らせを受けて物事を判断するにあたり、明晰にそれを下せないことを恐れる。徳のある臣下が朕の身を補佐してくれることを頼りにしているのに、君は病を理由に何度も辞職しようとしている。君主の力を量って選び、朝廷を去り、栄誉や俸禄を捨て、地位にこだわらないのは、昔の人がよくしていたことだ。しかし振り返ってみるに、周公(周の大臣)や伊尹(殷の大臣)はそうではなかった。身を清らかにし、節義に従うのは、普通の人間のやることだ。君にそのことは望んでいない。君よ、病を押して会議に出席し、予に恵みを与えてくれ。席を立ち、ひじかけと敷物を用意し、百官に君の到着を待つように命じた。朕はその後で席につくつもりだ」

それに加え、繆襲には別に詔を出していました。

「華歆が起き上がるまで必ず待ち、それから帰ってくるのだ」

このように強引に引き止めを受けたので、華歆はやむを得ず、立ち上がって会議に出席しました。

蜀の征伐を諌める

太和年間になると、将軍の曹真を派遣し、子午しご道を通って蜀を征伐させることになりました。

そしてこの時期、曹叡は御車にのって東の許昌に行幸しました。

この事態を受け、華歆は上疏して述べます。

「兵乱が起きて以来、二紀(二十四年)以上が過ぎています。大魏は天命を受け、陛下は聖徳をもって、成王と康王(周の二代・三代の王)の隆盛に当たっておられます。よろしく一代の統治を広められ、三つの王朝(夏・いん・周)の跡を受け継がれてください。
二賊(蜀と呉)は険阻な地をたのんで延命していますが、もし聖化が日ごとに盛んになれば、遠国の人々も徳を慕い、子供を背負ってこちらにやってくるでしょう。兵はやむなく用いるもので、ゆえに武器は集めておき、必要な時にのみ動かすべきです。
臣が誠に願うのは、陛下はまずお心を政治にとどめられ、征伐のことは後になさることです。千里の道のりをたどって食糧を運搬していますが、これには用兵の有利さがありません。険阻を越えて深く侵入しても、一方的に勝利の戦功を得ることはできません。そして聞くところによりますと、今年は民を徴用したとのことで、すこぶる農耕と養蚕の仕事がなおざりにされています。
国を統治する者は民を基とし、民は衣食をもって根本にしています。中国に飢えや寒さに苦しむ者がなく、民に土地を離れる気持ちを起こさせなければ、それがすなわち天下にとって幸甚なことです。二賊に隙が生まれるのを、座して待っているべきです。
臣は宰相の位についていますが、老いて病が日ごとに悪化し、犬や馬のような命はまさにつきようとしています。おそらくは、もう一度お車の天蓋を見ることはできないでしょう。なので、あえて臣下としての心を尽くさずにはいられません。陛下にはよくご判断され、ご考察ください」

曹叡はこれに答えて言いました。

「君は深く国家の計を考えており、朕はそれをはなはだしくよみする。賊は山や川を頼りにして守りを固めている。二祖(曹操と曹丕)は以前の時代において苦労されたが、打ち勝つことはできなかった。朕は必ず敵を討滅できると、自らをたのんでいるわけではない。諸将はまったく探りを入れなければ、敵が自ら倒れていく理由もないだろうと考えている。このために兵を見せ、敵の隙をうかがうのだ。もしも天の時がいまだに至らなければ、周の武王が軍を引き上げた故事を手本にするだろう。朕はつつしんで戒めを忘れるまい」

やがて秋には大雨が降り、進軍するのが困難になったので、詔を出して曹真に軍を引き上げさせました。

やがて亡くなる

華歆はこの問答があった翌年の、太和五年(二三一)に亡くなります。

敬侯とおくりなされました。

時に七十五才でした。

子の華表が跡をついでいます。

華表は父に似て清廉な性格で、常に引き際をわきまえようと努めていました。

晋にも仕え、太常たいじょう(祭礼の司)や光禄大夫こうろくたいふ(顧問官)などを歴任しています。

その他の子どもや孫たちも立身し、各地の長官になっており、文学や歴史書の制作でも名を残しました。

華歆評

三国志の著者・陳寿は華歆を次のように評しています。

「華歆は清廉で徳を備えていた。一時代の俊英であり、魏氏が初めて帝位についた際に、三公となった。栄えあることだ」

華歆は清廉で、かつ人と円滑な関係を築ける人物だったので、尊重されました。

そして見識があり、政務に関する能力が秀でていたので、常に高位にあり、生涯に渡って朝廷にとどまっています。

一方で、自分の働きをひけらかすのは好まなかったので、発言の記録などはさほど残されていません。

それでも、曹叡から病を押して最後まで仕えるように求められたことからも、その力量が優れたものだったことがうかがえます。