鍾繇は曹操・曹丕・曹叡に仕えて活躍した魏の重臣です。
西方の抑えにあたり、馬騰や韓遂を従え、反乱を鎮圧するなどして活躍しました。
行政や法務にも長けており、人格的にも秀でていたので、魏が建国されると、大臣に就任して重きをなします。
この文章では、そんな鍾繇について書いています。
潁川に生まれる
鍾繇は字を元常といい、潁川郡長社県の出身です。
鍾繇は子供のころ、叔父の鍾瑜と一緒に洛陽に行ったことがありましたが、その道中で人相見と出会いました。
人相見は「この子には貴い相がある。しかし水の災厄に見舞われるだろう。だから努めてそのことに慎重になりなさい」と鍾繇たちに告げます。
それから十(4km)も進まないうちに、橋を渡ろうとすると、馬が驚き、鍾繇は水に落ちて危うく死にかけました。
人相見の言葉が的中したので、鍾瑜は鍾繇を大事にし、費用を与えて勉学に集中できるようにしてやります。
【鍾繇の肖像】
取り立てを受けて立身する
鍾繇は叔父の世話のかいもあってか名を知られるようになり、潁川太守の陰脩に推薦を受け、尚書郎(政務官)、陽陵令になります。
この時期、同じく陰脩に見いだされた人物には、荀彧や荀攸などがおり、いずれも後に曹操の元に集っています。
こうして鍾繇は世に出ますが、やがて病のために辞職します。
その後、三公(大臣)の役所に召し寄せられ、廷尉正、黄門侍郎(宮廷官)に就任しました。
曹操と朝廷の関係を取り持つ
鍾繇が宮廷にあったころ、献帝は西の長安に遷都させられていました。
それを強引に押し進めた董卓はすでに亡く、その部下であった李傕や郭汜らが長安を支配し、関東とは断絶した状態にありました。
このころ、曹操は兗州牧(関東にある州の長官)の地位にあり、はじめて使者を派遣して上書します。
李傕や郭汜らは、「関東では別に天子(皇帝)を立てようとしている。いま曹操が使者を送ってきているが、実がなく、信用できない」と述べ、曹操の意図を拒絶しようかと話し合いました。
すると鍾繇は、李傕と郭汜に「いま英雄が決起し、それぞれが皇帝の命令を受けていると偽り、勝手に行動しています。ただ曹兗州(曹操)だけが王室に心を寄せています。その忠義に逆らうのは、将来の望みにそった考え方ではないでしょう」と述べ、曹操を擁護します。
すると李傕と郭汜は鍾繇の言葉を入れ、曹操に手厚く返答をすることにしました。
このようにして、曹操は朝廷に使者を通じさせることができるようになります。
曹操はかねてより、荀彧から鍾繇のことを聞いていた上に、李傕や郭汜を説得したことも知り、よい印象を抱きました。
献帝の長安脱出にも貢献し、さらに立身する
その後、李傕が献帝を脅かしたことがありましたが、鍾繇は対応のため、尚書郎の韓斌と策を練りました。
やがて献帝は長安を脱出することができましたが、それには鍾繇の働きが影響を及ぼしています。
このため、鍾繇は御史中丞に任命され、それから侍中(皇帝の側近)・尚書僕射(政務副長官)に昇進しました。
そしてそれまでの功績によって、東武亭侯の爵位も与えられます。
こうして鍾繇は、早いうちから高位に登っていました。
西方の抑えにあたる
関東に移った献帝は、曹操に擁立されるようになり、都は許に置かれました。
このころ、関中(西方)には馬騰や韓遂らの将軍たちがいましたが、それぞれに強兵を抱えて互いに争っています。
曹操は山東(北東方面)で敵を抱えていましたので、背後にあたる関中の情勢を憂いていました。
このため、上表して鍾繇を侍中の職のまま、司隸校尉(首都長官)を兼務させ、持節として指揮権を委ねます。
そして関中の諸軍を統率を任せました。
鍾繇は後のことを委任され、法や制度に縛られない、自由裁量権をも与えられました。
このことから、曹操からの信頼が厚かったことがうかがえます。
馬騰や韓遂を従え、曹操に馬を送る
鍾繇は長安に到着すると、馬騰や韓遂に書状を送り、禍福や利害を説明し、朝廷に従うようにと促しました。
すると馬騰と韓遂は子供を派遣し、皇帝の側に仕えさせます。
こうして鍾繇は関中の情勢を安定させ、大きな役割を果たしました。
曹操は官渡にあって袁紹と対峙していましたが、鍾繇は馬二千匹を集めて供給しました。
これは関中が馬の産地だったことに由来しています。
曹操は鍾繇に書状を送り、「送ってもらった馬を得て、緊急の事態に対応することができた。関中が平定され、朝廷が西方を憂う必要がなくなったのは、足下の勲功だ。その昔、蕭何(前漢の功臣)が関中を守り鎮め、食料を充足し、軍を編成した。これに匹敵するものだ」と、鍾繇の働きを絶賛しました。
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