霍峻 劉備に仕え、葭萌の防衛に活躍した蜀の将軍

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霍峻かくしゅんは劉備に仕え、益州の攻略時に活躍した武将です。

率いていた兵はわずかに数百人でしたが、一万以上の敵を撃退するという戦功を立て、武将としての力量の高さを見せました。

しかし、ほどなくして死去してしまったために劉備に惜しまれ、特別な葬礼で送られることになりました。

この文章では、そんな霍峻について書いています。

南郡に生まれる

霍峻はあざな仲邈ちゅうばくといい、けい州の南郡、枝江しこう県の出身でした。

180年に誕生しています。

兄の霍篤かくとくが、郷里において私兵を数百人集めていた、という記録がありますので、勢力のある家柄の出身だったようです。

やがて兄が亡くなると、荊州の牧(長官)である劉表は霍峻に命じ、残された軍勢を取りしきらせます。

そして208年に劉表が亡くなると、霍峻はこの軍勢を率いて劉備に従ったので、劉備は霍峻を中郎将ちゅうろうしょう(指揮官)に任命しました。

このような経緯で、霍峻は劉備に仕えるようになります。

葭萌の守備を任される

その後、劉備は劉しょうに招かれて蜀に入りました。

やがて劉備は劉璋と仲違いをし、葭萌かぼうで兵を挙げ、劉璋への攻撃を開始します。

この時、劉備は葭萌に霍峻を留め、益州における拠点の守備を任せました。

すると漢中を支配する張魯ちょうろが、将軍の楊帛ようはくを派遣して誘いをかけ、ともに葭萌を支配しようと持ちかけてきます。

これに対して霍峻は、「私の首を手に入れることができても、城は手に入れることができないぞ」と言って拒絶したので、楊帛は退散しました。

このように、霍峻は節義のある人物だったのでした。

劉璋軍の攻撃を撃退する

これから後のこと、劉璋配下の武将である扶禁ふきん向存しょうそんらが、一万以上の兵を率いて攻め寄せきました。

そして霍峻を包囲すること、一年にも及びます。

これに対し、霍峻は葭萌を固く守ったので、陥落することはありませんでした。

霍峻が率いる城内の兵士は、わずかに数百人でしたが、敵軍が油断している隙をとらえ、精鋭を選抜して出撃します。

そして劉璋軍をおおいに撃破し、数十倍の戦力差を跳ね返し、向存の首を取りました。

霍峻はこのように、優れた武略を備えた人物だったのでした。

劉備は蜀を平定すると、その手柄を称賛し、広漢郡を分割して新たに梓潼しとう郡を設け、霍峻を梓潼太守・将軍に任命します。

逝去する

霍峻はこれから3年後の219年に、40歳で逝去しました。

遺体は成都に持ち帰られ、埋葬されることになります。

劉備は霍峻の死に哀惜の意を示し、諸葛亮に詔勅を下しました。

「霍峻は立派な人物であり、国家に対して功績があった。

だかららいを挙行したいと考えている」

酹とは、地面にお酒を注ぎ、死者の霊を祭る儀式のことです。

劉備は自ら諸官を率いて弔祭を行い、そのまま霍峻の墓の上で宿泊をしました。

当時の人々は、「これは名誉なことだ」と称賛しています。

霍峻評

三国志の著者・陳寿は霍峻を次のように評しています。

「霍峻は孤城を守って動揺することがなかった。

記録に値する人物である」

霍峻は数百人の兵で一万以上の敵を破るという、優れた功績を立てました。

にも関わらず、早くに亡くなってしまったことが、劉備の憐憫の情を呼び、特別な葬儀が行われる要因となったのかもしれません。

短命だったものの、功績を立てる機会を得て、主君に死を惜しまれたのですから、霍峻の生涯は、不幸なものではなかったと思われます。

子の霍よくは劉禅の側近として仕えた後、益州南方を統括する将軍になりました。

蜀の滅亡後は、魏の司馬昭に信頼され、交州を攻略するなどして功績を立てています。

そして列侯の爵位を与えられ、子孫も晋に仕えました。