霍弋は劉禅に仕え、太子の側近や将軍を務めた人物です。
初めは劉禅の後継者・劉璿のお目付役をしていましたが、やがて将軍となり、蜀の南方で起きた反乱を鎮圧しました。
その後は南方の統治を担当しますが、やがて蜀の滅亡を迎えます。
やがて魏にも起用され、交州(ベトナム方面)を攻略するなどして活躍しました。
この文章では、そんな霍弋の生涯を書いています。
蜀の将軍の子として生まれる
霍弋は劉備に仕えて活躍した将軍・霍峻の子です。
生年は不明となっています。
字を紹先といい、劉備が亡くなった年(223年)に、劉禅の舎人(警固・雑用役係)に任命されました。
劉禅の舎人には、後に出世した費禕や董允もいましたので、霍弋もまた将来を見込まれていた、ということになります。
やがて劉禅が蜀の皇帝に即位すると、謁者(宮廷の取り次ぎ役)に登用されました。
このように、霍弋は初め、劉禅の側近として取り立てられたのでした。
漢中に移った後、再び劉禅の側近となる
諸葛亮が北伐のために漢中に駐屯した際に、霍弋は要請を受けて記室(書記官)となりました。
そして諸葛亮の子・諸葛喬とともにあちこちを巡り歩き、見聞を広めています。
霍弋はそれまでずっと宮中の仕事をしていましたが、それ以外のことも経験させておこうと、諸葛亮が気を配ったのかもしれません。
やがて諸葛亮が亡くなると黄門侍郎に任命され、劉禅の側近となりました。
劉璿のお目付役となる
そして劉禅が子の劉璿を皇太子に立てた際に、霍弋は太子中庶子(側近)に任命されています。
劉璿は馬術や弓術を好み、宮殿の出入りに際して節度がありませんでした。
このため霍弋は古代の事例を引き合いに出し、言葉を尽くして劉璿を諫めます。
その態度は、太子の人格を磨く上で有益なものであったと評価されています。
霍弋は人を戒めることができる性格で、それゆえに太子付となることが多かったのでしょう。
軍事に携わるようになる
霍弋は後に参軍(軍政官)として、来降屯の副弐都督(駐屯軍の副官といった地位だと思われる)となりました。
また護軍(軍の監察官)に転任しましたが、劉璿の側近としての職務も担当し続けます。
このようにして、宮中のことだけでなく、軍事にも携わるようになっていきました。
やがて永昌軍の獠族が要害を頼んで蜀に服従せず、たびたび被害を与えてきたので、霍弋は軍を率いて彼らの討伐に向かいます。
霍弋は将軍としての能力も秀でており、獠族の有力な指導者を討ち取り、彼らの村落を破壊したので、永昌郡は平穏を取り戻しました。
その後、監軍・翊軍将軍に昇進して、建寧の太守を兼務し、南郡の軍政を統括するようになりました。
こうして霍弋は、蜀の南方ににらみをきかせる立場に就いています。
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