大司馬は中国の官職です。
古代の周(前1046-前256年)の時代に設置され、軍事や運輸を司りました。
周では6人の行政長官で構成される六卿という地位がありましたが、そのうちのひとつです。
前漢では
前漢(前206-8年)の時代になると、六卿の上の三公に格上げされ、大司徒・大司空と並ぶ朝廷の最高官となりました。
武帝の時代、建元4年(前119年)に大将軍・衛青と、驃騎将軍・霍去病が並び立つと、霍去病が大司馬に任命されています。
このことから、大将軍と大司馬はともに国軍のトップとして、同程度の格式を持っていたことがわかります。
しかしこの頃の大司馬は称号であるに過ぎず、霍去病は大司馬と驃騎将軍を兼ねていました。
大司馬そのものには、兵権はなかったようです。
しかし前漢の終わり頃になると、大司馬のみで兵権を持つようになり、将軍位を兼ねることがなくなりました。
そして三公の筆頭にも立っています。
これは前漢の統治力が衰え、大司馬に軍を掌握させる必要が高まったからだと思われます。
こうして大司馬は、朝臣の頂点に立ちます。
前漢滅亡から後漢建国にかけて
やがて前漢が滅亡すると、新王朝が成立しますが、新は統治の失敗によって短期間で滅びます。
その過程においては、劉秀が大司馬に就任して勢力を伸ばし、やがて後漢を建国することになります。
このように、大司馬は依然として重要な地位のままとなっていました。
【劉秀 動乱期には大司馬となり、後に後漢の初代皇帝となる】
後漢では
その後、後漢(25-220年)が建国されると、動乱の時代は終わりました。
そして建武27年(51年)に官制の改革が行われ、大司馬は太尉という地位に置き換えられています。
太尉は軍を率いて戦うことはめったになく、国防の方針を立てたり、将軍たちの働きぶりを査定する、行政長官の職になっています。
これは後漢の統治が確立され、世が平和になったため、大司馬=太尉に大きな軍権を持たせる必要がなくなったからなのでしょう。
三国志における大司馬
後漢の統治が乱れて各地で反乱が起き始めると、188年に王室の一員で、かつ名声が高かった劉虞が大司馬に就任しています。
他には劉備が219年に漢中王を名のると、大司馬にも就任しました。
彼らはいずれも、衰えた後漢を軍事的に支える役割を担うために、大司馬になったのでした。
このように乱世に突入すると、大司馬は復活し、軍を率いて国を立て直す役割が求められるようになりました。
これは前漢も後漢も同じだったようです。
三国時代には
220年に後漢が滅ぶと、魏王朝でも大司馬は任命されており、功臣の曹仁が就任しています。
【魏の大司馬になった曹仁】
蜀では諸葛亮の後を受けた蒋琬が大司馬に就任し、彼につぐ立場だった費禕が大将軍となっています。
曹仁は大将軍から大司馬に昇進していますし、三国時代においては、魏と蜀どちらでも、大司馬が大将軍の上に立ち、国軍を統括していたとみることができます。
このように大司馬は、時代状況に応じて消滅したり復活したり、役割も変化していく地位だったのでした。