この記事は三国志を短い時間(10分くらい)で、ざっくりと理解するためのものです。
三国志のあらましと流れを手早く知りたい、という人向けです。
後漢の衰え
中国にはかつて、後漢という王朝がありました。
西暦25年から220年まで、おおよそ200年間、中国を支配しています。
ですが、その期間の後半になると、賄賂を受け取るのが大好きな宦官たちが朝廷を支配するようになり、急激に国力が衰えていきました。
(宦官以外の普通の政治家たちも、賄賂が大好きだったらしいですが)
宦官とは、去勢(性器を除去)されて皇帝の身のまわりのお世話をする、雑用係のことです。
去勢されたのは、彼らが皇帝の妃たちが住む後宮にも出入りするためで、浮気を防止する目的がありました。
この宦官たちはやがて皇帝の側近となり、権力を欲しいままにします。
皇帝の身近にいる存在でしたので、宦官は中国に限らず、皇帝に気に入られて出世をすることが多い立場でもありました。
この宦官たちは賄賂の金額しだいで、人格や能力に問題のある、悪いやつでも高い地位につけたので、当然のことながら、政治が乱れていきます。
この結果、重税に苦しまされるなどした民衆が各地で反乱を起こし、地方長官が殺害される事件までが発生しました。
黄巾の乱
有名な黄巾の乱は、そういった反乱のうちのひとつで、184年に発生しています。
この反乱は参加者が数十万人を超えており、後漢の統治に不満を持っていた人が、非常に多かったことがわかります。
この討伐に曹操や劉備、孫堅らが関わっており、それぞれに功績をあげて、名前を知られるようになりました。
彼らと将軍たちの活躍で、黄巾の乱はどうにか切り抜けたものの、後漢はその後も立ち直れずに、衰退の一途をたどります。
このために曹操は魏を、劉備は蜀を、孫堅の子の孫権は呉を建国して、次の天下を担おうとしました。
この魏・蜀・呉の三国が並び立ったので、三国時代と呼ばれ、歴史書の『三国志』が書かれることになったのです。
と、話が結論に達してしまいましたが、そうなるまでの過程を、これから紹介していきます。
董卓が後漢をぼろぼろにする
反乱軍リーダーの張角が、挙兵後に病死した影響もあって、黄巾の乱はほどなくして鎮圧されました。
しかしやがて、董卓という悪人が朝廷を乗っ取り、自分の都合がいいように皇帝を取り替えたり、民衆から金品を略奪したり、虐殺をしたりと、むちゃくちゃなことをやります。
【董卓 中国を代表する暴君】
そして皇帝を長安に連れ去り、都の洛陽を略奪した上に、放火までしてずたぼろにします。
さらに歴代の皇帝の墓が暴かれ、埋められていた財宝が持ち去られてしまいました。
日本に例えると、東京が焼け野原になり、天皇の陵墓が荒らされたようなものですので、後漢の権威はがた落ちとなります。
こうして中央の統制がきかなくなったので、各地の長官たちは独立し、好き放題をやりはじめます。
やがては袁術のように、勝手に皇帝を名のる者まで現れました。
戦乱が訪れ、世はまさに世紀末、といった雰囲気になります。
(実際、この戦乱は2世紀末ごろに発生しています)
曹操がのし上がる
そんな中で曹操は、最強武将として知られる呂布を打ち破り、中原に勢力を築きます。
【演義では悪役だが、正史では主役の曹操】
呂布は曹操に負けているから最強じゃないのでは、と思うかもしれませんが、実は曹操こそが真の最強だったのです。
そして曹操は、200年に自分以上の勢力を築いた袁紹をも倒し、中原の覇者に登りつめました。
曹操は戦術を練る能力と、騎兵を率いて戦う力に優れていました。
このため、大軍を相手にしても奇襲によって勝つことができ、最強武将にして、最大の勢力を持つようになったのです。
となれば、そのまま曹操が天下を統一しそうですが、劉備や孫権がこれに抵抗したので、実現できませんでした。
一時、劉備は曹操のところにいたこともあるのですが、そりが合わず、離脱して独立しています。
孫権も曹操に従っていたことがありますが、結局は独立しています。
曹操には彼らを従わせるほどの人望はなく、かといって完全に打ち負かせるほどの武力もありませんでした。
曹操はこの時代で最強ではあっても、大陸全土を支配できるほどの強さではなかったのです。
この結果、中国は分裂することになります。
劉備ものし上がる
曹操がどんどん勢力を強める中、劉備もまた騎兵の指揮が得意で、数千〜一万程度の兵を率い、各地で戦って名をあげていきました。
【演義では主役の劉備 史実でも人望があり、強かったのは確か】
そして関羽や張飛といった豪傑を従え、優秀な人材を集めて強力な兵団を作りあげます。
戦乱の時代でしたので、戦いに強い劉備軍は各地で歓迎され、公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹、劉表と、いろんな勢力に味方しています。
(節操がないとも言う)
劉備は人当たりがよく、情の深い性格だったので好かれやすく、どこに行っても人気がありました。
このため、劉備はやがて人々から、大きな期待を寄せられるようになります。
それは曹操の天下統一を阻んで、漢王朝を復興させてほしい、というものでした。
曹操は後漢の皇帝(献帝)を手もとに置いて保護していたものの、実権はまったく与えていませんでした。
このため、曹操はいずれ後漢から権力を奪取して、自分の王朝を作るのではないかと疑われていました。
しかし、漢王朝にまだ続いて欲しいと思う人たちも多く、彼らは劉備にその役割を託そうとしたのです。
劉備は漢王室の血を引いていましたので、その資格がありました。
そして劉備は207年に荊州で諸葛亮(『孔明の罠』で有名な人)と出会い、「天下三分の計」を披露され、具体的な戦略案も手に入れました。
【諸葛亮 三国が成立したのは、だいたいこの人の影響】
これは北方を押さえた曹操に対し、南の荊州と益州を手に入れ、揚州を押さえる孫権と手を組んで曹操と対抗する、という戦略案でした。
こうして劉備は、曹操との対決姿勢を強めていきます。
【次のページに続く▼】