衛臻 父の遺徳を受け、立身した魏の賢臣

スポンサーリンク

衛臻えいしんあざな公振こうしんといい、陳留ちんりゅう襄邑じょうゆう県の出身です。

父の衛は立派な節義を備えており、三公(大臣)としての招聘を受けませんでした。

曹操が初めて陳留を訪れた際、衛茲は「天下を平定するのは、必ずこの人であろう」と述べます。

曹操もまた衛茲を特別な存在だと思い、いくたびかその元を訪れ、大事を相談しました。

衛茲は董卓を討伐する戦いに、三千の兵を率いて参戦しましたが、滎陽けいようの戦いで奮戦したものの敗北し、亡くなっています。

その後、曹操は郡の境を通過するたびに、使者を送って衛茲を祭らせました。

夏侯惇に逮捕されるも、やがて朝廷に仕える

夏侯惇が陳留の太守になると、衛臻を計吏に推挙し、夫人に宴会に出るようにと命じます。

これに対し衛臻は「それは末世の風俗であり、正しい礼から外れています」と述べました。

夏侯惇はこれを聞くと怒り、衛臻を逮捕させましたが、やがて釈放します。

その後、衛臻は漢朝の黄門侍郎こうもんじろう(宮廷官)に就任しました。

父の功績によって取り立てられる

やがて東郡の朱越しゅえつが謀反を起こすと、衛臻を仲間に引き込もうとします。

この時、曹操は「わしは卿の父君とともに事を起こした。それに加えて素晴らしい意見も受けたものだ。
初めに朱越の発言を聞いた時、もとより信じることはなかった。荀令君(荀彧)の書を得て、その忠誠は明らかになった」と述べ、衛臻が無実であるとします。

それから衛臻が詔を奉じ、貴人を迎えに魏を訪れたので、曹操は丞相軍事に任命し、留め置きました。

そして父の旧勲を追慕して、衛臻に関内侯かんだいこうの爵位を授けます。

また、戸曹掾こそうえんにも任命しました。

曹操が衛茲のことを大事に思っていたことが、よく伝わってくる挿話です。

曹丕からも取り立てを受ける

曹丕が魏王に即位すると、衛臻は散騎常侍になりました。

そして皇帝になると、安国亭候に封じられます。

この時、群臣たちは魏の徳をたたえ、前の王朝である漢をけなしていました。

衛臻はひとり、禅譲の義を明らかにし、漢の美徳を称賛します。

曹丕はいくたびか衛臻を見て「天下の中でも際立っている。山陽公(禅譲した漢の献帝)と同じ待遇にすべきだ」と褒めました。

これを受け、衛臻は尚書に昇進し、侍中吏部尚書(皇帝の側近)に転任します。

呉兵の偽りを見抜く

曹丕が広陵に行幸すると、衛臻は中領軍の代行として従軍しました。

この時、大将軍の曹休が、降伏した呉軍の兵から情報を聞き出し、「孫権はすでに濡須口じゅしゅこう(最前線の基地)にいます」と上表します。

これに対し衛臻は「孫権は長江をたのみとしており、あえて抗い、衝突することを避けています。これは恐怖にかられ、偽りの告白をしただけのことでしょう」と指摘しました。

そこで降伏した者をよく調べてみると、果たして守将がだまそうとして偽りを述べたのだとわかりました。

官吏の人事を担当する

やがて曹丕が亡くなり、曹叡が即位すると、こう郷侯に爵位が進みます。

そして右僕射うぼくやになり、官吏の人事を担当し、以前と同じく侍中の官を加えられました。

このころ、中護軍の蒋済しょうさいは、衛臻に書簡を送って述べています。

「漢の高祖(劉邦)は、逃亡してきた者(韓信)を上将に取り立てました。
周の武王は漁師(太公望)を太師に抜擢しました。
平民であっても王公になることができるのです。
以前からの制度を守り、試してから後に用いればよいというものでもないでしょう」

衛臻はこれに答えます。

「古人は知恵に頼った起用をやめ、制度を定めて器量を量るようにしました。
そして成績を考査し、それから昇進させたり降格させたりします。

いま、あなたは成王や康王の安定した時代と、牧野で決戦が行われた戦乱の時代を同じだと考え、平和で安定した文帝・景帝の時代に、蛇を断ち切った(乱世に遭遇した)高祖の話を持ち出しています。

通常と異なった方法で人を起用し、変わり者を抜擢するようになれば、天下の者たちが起用されようと活動し、騒然とするでしょう」

蒋済は乱世に適した、才能のある奇士を抜擢するようにと衛臻に勧めたのですが、衛臻は魏が成立してある程度、秩序が取り戻された以上、そのような方針は必要ないと答えたのでした。

征蜀将軍になる

諸葛亮が北伐を開始し、天水てんすい郡に侵攻してくると、衛臻は次のように上奏します。

「奇兵を散関に入れ、敵の糧道を断つのがよろしいでしょう」

これによって衛臻は征蜀将軍・仮節督諸軍事に任命されました。

そして長安にまで到達したところで、諸葛亮は撤退したので、都に戻ります。

復職し、光禄大夫こうろくたいふの官を加えられました。

宮殿の造営を諌める

このころ、曹叡は宮殿の造営に夢中になっており、衛臻はたびたびこれを諌めます。

そして殿中監(監督官)が蘭台らんだい令史(文書の管理官)を勝手に収監する事件を起こすと、衛臻はそれを調査して上奏しました。

これに対し曹叡から「宮殿が完成しないのは、我が心にわだかまっていることだ。卿は何を調べようというのか」と詔が出されます。

衛臻は上疏して「古代において、官吏の越権についての法を定めたのは、官吏が仕事に励むことを悪としたからではありません。
実のところ、得られる利益が少なく、害の方が大きいからです。

臣はいつも校事(官吏を監察する役目)を観察していますが、みながこのたぐいのことをしています。
職務にあたる者たちが越権すると、やがて本来、その仕事を担う役職が衰退してしまいます」と答えました。

スポンサーリンク


孫権の動きを予測する

諸葛亮が斜谷やこくに出撃してくると、征南将軍は「朱然しゅぜんらの軍勢は、すでにけい城を通過しています」と報告しました。

衛臻は「朱然は呉の勇将ですから、長江を下る際には、必ず孫権に従います。これはただ勢力を示し、征南将軍をつなぎとめておこうとしているのでしょう」と意見を述べます。

つまり、これは荊州方面に軍勢を釘付けにするための、陽動作戦だと見抜いたのでした。

果たして孫権は、朱然を召喚して居巣きょそうに入り、合肥がっぴに侵攻してきました。

曹叡が自ら東征しようとすると、衛臻は「孫権は外向きには諸葛亮への呼応を示していますが、内側では情勢を観望しようとしています。それに合肥城は堅固ですので、心配する必要はありません。御車を向けて親征する必要はなく、軍費を省くのがよいでしょう」と意見を述べます。

衛臻が予測した通り、曹叡が尋陽じんように到着すると、孫権は撤退しました。

このように、衛臻は敵の動きや意図を的確に読み取る能力を備えていました。

毌丘倹の意見を批判する

ある時、幽州刺史の毌丘倹かんきゅうけんが、上疏して述べました。

「陛下は即位されてからというもの、記録されるほどの功業を成し遂げられておりません。
呉や蜀は険阻をたのみとしており、そう簡単に平定することはできません。
ですので、幽州において用いられていない兵士たちを動員し、遼東りょうとうを平定してはいかがでしょう」

衛臻はこれに反論します。

「毌丘倹が述べているのは、戦国時代の細かな術策にすぎず、王者がなすべきことではありません。
呉は毎年のように兵を動員し、国境を侵して撹乱してきますので、装備の用意をし、兵士を養っておかなければなりません。
いまだ討伐することができていないのは、実に民衆が疲弊しているがゆえです。

遼東を統治する公孫淵こうそんえんは、海を隔てて生長し、三代に渡ってその地位を受け継ぎ、外は異民族をなつかせ、内においては戦力を整えています。
それを毌丘倹は、一軍を率いて長距離を馳せ、朝に到着し、夕方には勝利する気でいます。
これは誤った策だとわかります」

結局、毌丘倹は行軍したものの、勝利することはできませんでした。

大臣の地位につく

衛臻は司空しくうになり、やがて司徒しとにも就任します。

これらはいずれも大臣の地位です。

正始せいし年間(240-249年)には長垣侯に爵位が進み、領地は千戸になり、一子が列侯に封じられました。

危険を避ける

その昔、曹操が久しく太子を立てていなかったころ、曹植を大事にしていました。

そして丁儀ていぎらがその羽翼となって助け、衛臻に仲間になるようにと求めてきました。

衛臻は大義を理由にして、これを拒みました。

丁儀は曹植と後継者の地位を争った曹丕が王位につくと、処刑されています。

その後、曹丕が帝位につくと、東海王の曹りんが寵愛を受けます。

そして曹丕は衛臻に「平原候(曹植)をどう思う?」とたずねます。

衛臻は曹植の徳を賛美しましたが、曹霖については何も言いませんでした。

曹霖は粗暴な性格で、侍女を殺害するなど問題が多い人物だったので、曹叡の代になると遠ざけられました。

その後、曹そうが皇帝を補佐するようになると、夏侯玄を使者として、衛臻を招いて尚書令(政務長官)に任命したいと伝えました。

そして弟のために妻を求めましたが、衛臻はいずれも承知しませんでした。

曹爽はやがて司馬懿がクーデターを起こした際に、処刑されています。

このようにして、衛臻はその人物の将来を見越し、危うさを感じる相手とは付き合わないようにしたことで、その身を全うできたのでした。

やがて亡くなる

年老いた衛臻は、引退を強く希望するようになりました。

すると詔勅が出されます。

「その昔、段干木だんかんぼくは引退してからも、その義が強大な秦を牽制した。
りゅう候(張良)は精神を養いながらも、(項羽)のことを忘れなかった。
道理にあった言葉や、よい謀があれば、おしみなく提言することを望む」

区画ひとつを用いた邸宅が下賜され、特進の位と、三公(大臣)と同じ恩給が与えられました。

亡くなると、太尉たいい(国防大臣)を追贈され、敬侯とおくりなされます。

子の衛烈が後を継ぎ、咸熙かんき年間に光禄勲こうろくくんになりました。

衛臻評

三国志の著者・陳寿は「衛臻はかがみとなるような規範を示し、清廉で理にかなっていた。それにより、職を辱めることがなかったという」と評しています。

衛臻は父の遺徳があり、当人も賢明で、清廉な性格だったので、魏でおおいに立身しました。

また、人の行く末を見極める目も備えていたようで、失脚する人たちと関わらないようにしていたことで、危機を逃れてもいます。

官僚として、優れた人物だったと言えます。