侍中は中国の官職です。
元々は皇帝の身辺に仕えて雑用をこなす係で、身分はさほど高いものではありませんでした。
皇帝の衣服から乗り物、果てはたん壺の管理までしていたと記録されています。
前漢の武帝の時代に、孔子の子孫である孔安国が侍中となり、たん壺の管理をしたのですが、これは嫌がらせ…ではなく、朝廷は栄誉を与えるつもりで就任させたそうです。
後に孔安国は諫議大夫(皇帝の誤りをいさめる役)や太守に昇進していますが、初めは自分への扱いにとまどったかもしれません。
時代をへるにつれて侍中の権限は強まっていき、後漢の時代になると、重臣が兼任するようになります。
常に皇帝の側にいますので、政治力を備えた者が務める方が、都合がよいと判断されたのでしょう。
侍中は皇帝の質問に答えたり、上奏される書類の取り次ぎを担当するようになります。
言わば、皇帝の顧問官に地位が向上したのでした。
三国志では
荀彧
三国志では荀彧が侍中と尚書令を兼任し、献帝の側近となっています。
【献帝の侍中を務めた荀彧】
尚書令は公文書を管理する役目でした。
つまり荀彧は公文書をその手に握りつつ、献帝に口頭でも助言をする立場についたわけで、皇帝の目や耳に触れる情報を、全て管理していたのだと言えます。
曹操は荀彧にこの役目を任せることで、献帝を思うままに操りつつ、他の朝臣が献帝に近づき、曹操にとって都合の悪い方向に朝廷を動かすことがないよう、監視させていたのでした。
これはやや特殊な侍中のあり方だと言えるかもしれません。
馬良
他には、「白眉」として知られる馬良が劉備の侍中に就任しています。
彼は優れた学識を備えていましたので、顧問として起用されました。
そして夷陵の戦いの際には、荊州に住んでいる五渓という異民族を帰順させる功績を立てています。
しかし、やがて劉備の陣営が陸遜の猛攻を受けると、敗戦に巻き込まれて戦死してしまいました。
魏以降はさらに地位が高まる
魏や晋では選任の官位に昇格し、定員は4名とされました。
そして政権の中枢に参与しています。
その後、南北朝時代では宰相と同等の地位になるなど、更に身分が高まりました。
隋の時代には「納言」と改称されましたが、これが日本の大納言・中納言・少納言という官職名の元になっています。
唐の時代に侍中に戻り、強力な権限を得ました。
しかしその後は少しづつ権限が縮小されていき、元の時代には廃止され、歴史から姿を消しています。
日本では
日本では蔵人という官職が、天皇の秘書や顧問の役割を果たしていました。
この蔵人を唐名で呼ぶときに、侍中という名称が使われています。
また、先ほどあげた大納言は、君主の言葉を臣下に、臣下の言葉を君主に伝える役割でしたので、侍中と類似した存在だったのだと言えます。
江戸時代においては、将軍への取り次ぎを担当した側用人がこれに当たると思われます。
君主制がしかれていた時代には、必要な役回りだったのだと言えます。