楊儀は蜀に仕えた文官です。
並外れた事務処理能力を備えており、北伐の際に諸葛亮から重用されました。
諸葛亮の死後は、険悪な関係にあった魏延を葬り、蜀の国政の中心に座ろうとしましたが、性格に難があったために地位を失います。
それに不満を抱き、暴言をはき続けたために、やがて流罪となり、自害して果てました。
この文章では、そんな楊儀について書いています。
襄陽に生まれる
楊儀は字を威公といい、荊州の襄陽郡の出身でした。
生年は不明となっています。
初めは荊州刺史(長官)・傅羣の主簿(事務長)を勤めていました。
しかし、やがて傅羣に背き、襄陽太守の関羽の元に赴きます。
つまりは曹操陣営から、劉備陣営と鞍替えをしたのでした。
これをきっかけとして楊儀は蜀の人となり、立身していくことになります。
関羽を通じて劉備に取り立てられる
関羽は楊儀を功曹(人事の長)に任命し、益州にいた劉備のもとへ、使者として派遣します。
劉備は楊儀と、軍事と国政や、政治の利害について語り合いましたが、その結果、楊儀を大変に気に入りました。
このため、そのまま招請をして、左将軍(当時の劉備の官職)の兵曹掾(幕僚)に任命します。
こうして楊儀は、劉備の直属の臣下としての立場を手に入れたのでした。
劉備陣営に移るや、すぐに取り立てを受けたことから、優秀な人材だったことがうかがえます。
左遷される
劉備は219年に漢中王になると、楊儀を抜擢して尚書(直属の政務官)に任命しました。
しかし、劉備が呉を征伐するために荊州に乗り込んでいた際に、楊儀は尚書令(長官。つまりこの時の上司)の劉巴と仲違いをしたために、はるか遠方の弘農太守に左遷されてしまいました。
楊儀は人との付き合い方に問題を抱えていた人物だったのですが、その片鱗が、この左遷からうかがえます。
諸葛亮に呼び戻される
しかし225年になると、丞相となった諸葛亮が、楊儀を参軍に任命し、軍府の事務を司らせました。
そして益州南方で起きた反乱を討伐する際に、随行させています。
さらに227年には、北伐の準備を開始するため、諸葛亮が漢中に向かった際にも、楊儀は随行しました。
このようにして、楊儀は諸葛亮から側近として用いられるようになります。
長史となって活躍する
230年になると、楊儀は長史(副官)に昇進し、綏軍将軍の号を加えられました。
諸葛亮は漢中からたびたび出陣し、魏と戦いましたが、楊儀はいつも軍事計画を立案し、部隊編成を行っています。
さらに軍需物資の計算や調達も担当しましたが、迷うことなく、いつも短時間で処理することができました。
楊儀は人並み外れた事務処理能力を備えており、そのために諸葛亮から重宝されたのでした。
魏延と争う
こうして楊儀は地位を高めていきますが、同じく北伐に参加していた、将軍の魏延とは険悪な関係でした。
諸葛亮は楊儀の才幹を愛し、魏延の剛勇を頼みにしていたので、いつも二人が不仲であることを残念がっていました。
しかし、一方だけをやめさせることは忍びなかったので、幕僚の費禕に命じ、二人の関係が破綻しないようにと務めさせます。
魏延は誇り高く、剛直さを振りかざす性格でしたので、彼と接する人々は、争いが起きないよう、身を低くして付き合っていました。
しかし楊儀だけは、魏延と正面からぶつかったので、争いが絶えなかったのです。
楊儀は対人関係において、不器用だったのでした。
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