天下三分の計は、三国志において、諸葛亮が劉備に勧めた戦略案です。
207年頃、劉備は荊州を支配する劉表の客分となり、新野に駐屯していました。
劉備はやがて司馬徽や徐庶に勧められ、臥龍(眠れる龍)と呼ばれる諸葛亮に会いに行きます。
そして三度目の訪問で、ようやく諸葛亮に会うことができました。
そこで劉備は「漢王朝は傾き崩れ、姦臣が天命を盗み、皇帝は都を離れておられる。
私は天下に大義を浸透させようと願っているが、知恵も術策も不足しているためにそれが実現できない。
君はどうすればよいと思う?」と質問をしました。
【まだ無名だった諸葛亮を、三度も訪ねた劉備】
すると諸葛亮は、次のように意見を述べました。
「曹操は百万の軍勢と皇帝を擁し、すでに強大な存在になっているので、すぐに対等に戦える相手ではありません。
一方で、孫権は三代にわたって江東に割拠し、国家が堅固で有能な臣下が多いので、味方にすべきであり、敵対してはなりません。
荊州は北、西、東、どちらに出るにも便利な土地で、経済的に発展していますが、領主は軟弱なので、外部からの侵攻に持ちこたえることができません。
ですので、荊州こそが将軍が手に入れるべき土地です。
そして益州は堅固な要塞の地で、豊かな平野が千里も広がっていて、天の庫とも言える土地です。
高祖(劉邦)はここを基盤にして帝王となりました。
領主の劉璋は暗愚で、北には張魯という敵を抱え、人口が多く国が豊かなのに、民の暮らしに心を砕かないので、有能な人士は名君を得ることを心待ちにしています。
将軍が荊州と益州を合わせて支配し、要害を保って西方の諸蛮族を手懐け、南方の異民族を慰撫し、外交では孫権とよしみを通じ、善政をしいて内を固めれば、曹操に対抗することも可能となります。
天下に変事があれば、上将に命じて荊州の軍を宛や洛陽に向かわせ、将軍ご自身が益州の兵を率いて秦川に出撃するようになされば、民衆は食糧を携えて将軍を歓迎するでしょう。
このようになされば、覇業は完成し、漢王朝は復興します」
この時に述べた諸葛亮の戦略案が、後に「天下三分の計」と呼ばれました。
【劉備に天下三分の計を提示した諸葛亮】
曹操・劉備・孫権の三勢力によって拮抗状態を作り出し、それによって曹操が一人勝ちするのを妨げ、最終的には曹操を打ち破り、漢王朝を復興するのがその目的です。
曹操には、漢王朝から帝位を簒奪しようとしている、という不義がありましたので、王朝の復興を掲げる劉備の方に正義があり、それゆえに世論の賛同を得られやすくなる、ということも諸葛亮は計算していました。
劉備はこの後、諸葛亮を軍師として迎え、この計画にそって行動していくことになります。
計の実行と結果
やがて劉備は孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操を撃退しました。
そして荊州の南部を手に入れ、勢力の基盤を形成します。
続いて益州に攻め込み、劉璋からこの土地を奪取して、二州にまたがる勢力を形成しました。
219年に関羽を荊州から北上させると、諸葛亮が予測したとおり、魏では曹操に反乱を起こす者が次々と現れ、宛の太守も離反します。
【曹操を打倒するために奮闘した関羽】
こうして天下三分の計が成功するかと思われましたが、孫権が敵対し、荊州に攻めこんできてしまいました。
孫権は関羽が動いたのを、荊州を奪取する好機だと判断したのです。
このため、関羽は曹操軍と孫権軍のはさみ撃ちにあい、敗死してしまいました。
その後、蜀の皇帝となった劉備は、荊州を奪還するために攻めこみますが、夷陵で大敗したため、蜀は益州のみを支配することになります。
天下は魏・蜀・呉の三国に分割されましたが、蜀は諸葛亮の想定よりも、勢力が小さくなってしまいました。
それでも諸葛亮は、益州から盛んに北伐を繰り返しますが、一方面のみからの攻撃だったので魏に対応されやすくなり、荊州から圧迫することができなかったので、ついに漢王朝の復興を果たすことはできませんでした。
このように、最終的には成功しなかったのですが、この故事によって、天下三分の計は「勢力を分散して拮抗状態を作り出す」ことを意味するようになります。
ちなみにこれは日本での呼び方で、中国では「隆中策」と呼ばれています。
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