甘寧 侠客から呉の将軍へと登り詰めた男の生涯

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甘寧かんねいは孫権に仕えて活躍した将軍です。

元は益州で役人をしていましたが、やがて無頼の徒を集めて頭領となり、好き放題をして暮らしていました。

その後、劉璋への反乱に参加しますが失敗し、けい州を経由して呉に移住し、孫権に仕官します。

呉の武将になってからは曹操や張遼、関羽ら名だたる武将たちと戦って功績をあげ、立身しました。

この文章では、そんな甘寧の生涯を書いています。


【甘寧の肖像画】

巴郡に生まれる

甘寧は字を興覇こうはといい益州の郡、臨江の出身でした。

生年は不明となっています。

初めは役人になって会計報告の係となり、やがて郡のじょう(副官)にまで立身します。

このことから、甘寧は文官にも向いた能力を持っていたことがわかります。

しかし役人の生活は性にあわなかったのか、やがて官を辞して故郷に戻りました。

無頼の徒を集める

甘寧は臨江に戻ると、任侠の徒としてふるまうようになり、無頼の若者たちを集めてその頭領になります。

そうして集団を作り上げると、弓やいしゆみを携え、水牛の尻尾で作った旗指しものをそろって背につけました。

そして腰に鈴をつけていたので、人々は鈴の音を聞くと、甘寧の一味が歩いているのだと知ることになります。

そうすることで、甘寧はおのれの勢力を誇示しつつ、仲間との結束を高めたのでした。

巴郡で名を知られるようになる

甘寧は義理や人情によって人を殺したり、亡命者を家にかくまったりしたので、その名は巴郡全体に知られるようになります。

外出する時には、陸路であれば馬車を連ね、水路であれば軽快な船を並べました。

そして従者たちにはあや紋様の刺繍をつけた着物を着させ、華麗な行列を見せつけています。

そして船をとめる時には、錦織の綱でつないでおき、出発の時にそれを斬り捨て、豪奢さを誇示していました。

この時期の甘寧はこのように、伊達を飾った生活を送っており、非常に羽振りがよかったのでした。

傍若無人にふるまう

甘寧は地方の長官たちに対しても遠慮がなく、自分によくしてくれた者とは一緒に楽しむものの、そうでない者のところには、手下を送って財産をぶんどったりしました。

そして地元で強盗傷害事件が起きると、勝手にその摘発と制裁を行うなどしており、さながら甘寧が長官であるかのようにふるまっています。

いうなれば、甘寧は地元の顔役であり、ヤクザの大親分になっていたのでした。

そんな生活を二十年あまりも続けていましたが、やがて暴力をふるうのをやめ、先賢たちの書物を読むようになりました。

年齢を重ねるうちに、いつまでも無頼の生活を続けていいものかと、考えるところがあったのかもしれません。

劉璋への反乱に加担するも、失敗する

194年になると、益州の領主は劉焉から、その子の劉璋へと代替わりします。

すると長安の李確が、扈瑁こぼうという者を刺史(長官)に任命し、益州を奪おうとしました。

この時に益州の将軍たちが扈瑁に味方し、劉璋に対して反乱を起こします。

すると甘寧も勧誘を受けたようで、これに加わりますが、敗北して荊州に逃亡しました。

こうして甘寧は巴郡で築いた地位を失い、主君を求めてさまようことになります。

劉表の元に身を寄せる

益州を脱出した甘寧は、食客八百人を引きつれ、荊州の南陽に移住しました。

甘寧の先祖は南陽の出身でしたので、その縁もあって、荊州を支配する劉表に身を寄せようとします。

しかし劉表は甘寧を気に入らず、取り立てることはありませんでした。

劉表は知識人で、儒教に通じていましたが、軍事には疎かったのがその理由となっています。

一方で、礼節を重んじる人物でもありましたので、元はヤクザの親分である甘寧をうさんくさく思い、才能があっても取り立てようという気にはなれなかったのかもしれません。

甘寧もまた劉表を見限る

甘寧もまた、劉表のやっていることを観察し、彼には荊州の外に討って出るほどの気概はなく、いずれは敗亡するだろうと見通しを立てました。

このため、劉表よりも勢いがある、呉の孫氏に仕えようと思い、南陽を立ち去ります。

しかし呉に向かう際の通過点となる夏口は、劉表の配下である黄祖こうそが守っており、しかも呉と敵対していました。

このため、甘寧のような男をやすやすと呉に行かせるはずもなく、やむなく甘寧は黄祖の元に身を寄せます。

【次のページに続く▼】