晥城の攻略で手柄を立て、将軍になる
さらに、214年に行われた晥城の攻略戦に参加した時には、呂蒙の策によって、升城督という、突撃隊長の役目を任されました。
すると甘寧は、みずから先頭に立ち、兵卒たちよりも先に城壁を登り、敵を大いに打ち破ります。
そして守将である朱光を捕らえる大手柄を立てました。
この功績によって折衝将軍に昇進し、呉軍の重鎮の一人にまで登り詰めます。
このように、甘寧は呉に仕えてからというもの、水を得た魚のように、どの戦場でも目立った戦功を立てたのでした。
関羽の侵攻を防ぐ
その後、孫権と劉備は仲違いをし、荊州の支配権をめぐって争うようになります。
この時に甘寧は、周瑜にかわって荊州の指揮官となっていた、魯粛の元で戦いました。
敵将は関羽で、自ら五千の精鋭を率いて渡河し、呉軍に攻撃をしかけようとしている、という情報がもたらされます。
このため、魯粛は部将たちを集めて対応策を協議しました。
甘寧はこの時、三百の兵を率いていましたが、「五百人を私の配下に加えていただけますれば、私が関羽に対処しましょう。
関羽は私のせき払いを聞いただけで、川を渡ることをためらうはずです。
もし川を渡ったら、彼は私の捕虜になってしまうからです」
魯粛はこれを聞くと、すぐに千人の兵を甘寧に与え、出撃させました。
甘寧は夜間に急行し、関羽が駐屯している浅瀬の対岸に陣取ります。
関羽はこれを聞くと、甘寧の予想通りに渡河をとりやめ、そこに仮の軍営を築いてとどまりました。
先に甘寧は曹操の陣営に乗り込んだ実績がありましたので、奇襲を警戒したのでしょう。
これにちなんで、その地は関羽瀬と呼ばれるようになります。
このように、甘寧の名声は関羽に攻撃をためらわせるほどに、高まっていたのでした。
甘寧は単に強くて勇敢なだけでなく、みずから作戦を考える能力も持っており、知勇兼備の将だったのだと言えます。
太守となり、領邑を持つようになる
結局この抗争は、劉備が荊州の三郡を呉に譲ることで決着し、甘寧の働きが実ることになりました。
この功績によって、甘寧は西陵太守となり、陽新と下雉の二県を領邑として与えられています。
こうして甘寧は、ついに統治者にもなったのでした。
張遼の襲撃に応戦する
甘寧は215年に、孫権が合肥を攻めた際にも従軍しました。
この戦いでは、呉軍に伝染病が流行したため、孫権は攻撃をあきらめて退却を命じています。
軍団があらかた引きあげ、孫権の側には千人の近衛兵と、甘寧や呂蒙、蒋欽、淩統といった将軍たちだけが残っていました。
すると敵将の張遼はこの様子を見て、孫権を討ち取る好機だと判断し、兵を率いて急襲をしかけてきます。
甘寧はこの時、弓を手にして矢を射かけ、淩統らとともに、命がけで孫権を守るために戦いました。
そのさなかに、甘寧は軍楽隊が張遼の急襲に驚き、呆然としているのを見ると腹を立て、「なぜ音楽を鳴らさぬのだ!」と叱りつけました。
甘寧は修羅場にあってそのように、何者にも犯せない猛々しさを備えていたのでした。
孫権はこの時の甘寧の働きを、大変に喜びました。
甘寧と淩統
ところで、この時に甘寧とともに戦った淩統は、かつて甘寧が黄祖を救った時に殺害した、凌操の息子です。
甘寧は自分が淩統から恨まれていることを知っていたので、いつも警戒し、会おうとはしませんでした。
そして孫権は、淩統に決して仇討ちをしてはいけないと戒めています。
しかしあるとき、呂蒙の家で宴会が開かれると、甘寧と淩統はそこで顔を合わせることになってしまいました。
そして酒が進んで宴もたけなわになると、淩統は刀を持って舞い始めます。
甘寧はこれは自分を狙っての行動だろうと判断し、「私も双戟の舞いが得意です」と言って、対抗しようとしました。
すると呂蒙が「甘寧も剣舞が得意なようだが、私ほどではないだろう」と言って、刀と盾を手に取り、二人の間に割り込んだため、ことなきを得ます。
孫権はこれを聞くと、淩統の怨みはとても深く、鎮めることは難しいと判断しました。
このため、甘寧に半州に駐屯するように命じ、二人を遠ざけることにします。
このように、かつて黄祖の元にとどまっていたことが、甘寧を祟ることになったのでした。
甘寧と淩統はどちらも仇を放っておけない性質で、似た者同士だったのだと言えるかも知れません。
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