杜瓊は蜀に仕えた学者です。
学識に優れ、儀礼や宗廟などを司る地位を歴任し、高く評価されました。
一方で未来を予測する術にも通じていましたが、むやみにそれを明らかにせず、我が身を損なうことを避けています。
この文章では、そんな杜瓊について書いています。
成都に生まれる
杜瓊は字を伯瑜といい、蜀郡の成都県の出身でした。
若い頃に任安という高名な学者から図讖の術を学び、やがて通暁するほどになります。
図讖とは、天文の状態を読み解き、未来を予測する技術でした。
蜀では他に、周羣という学者もまた図讖に通じており、予知の研究が盛んに行われていたようです。
劉璋や劉備に仕えて昇進を重ねる
やがて杜瓊は劉璋に召し出されて従事(側近)となりました。
そして劉備が益州を平定し、牧(長官)に就任すると、杜瓊は議曹従事に任命されます。
220年になって、劉備が群臣に即位を勧められた際には、その上表文に名を連ねました。
その後、劉禅の代になると諫議大夫(助言役)となり、左中郎将(近衛指揮官)、大鴻臚(儀礼統括)、太常(宗廟統括)を歴任しました。
左中郎将の時に、諸葛亮が出征先で亡くなりましたが、その際に杜瓊は使者となり、丞相・武郷候の印綬を漢中に届ける役目を務めています。
杜瓊は静かで控えめな性格で、あまり口を開かず、門を閉ざして家にいることが多く、世間のことには関わろうとしませんでした。
それでいて蜀の宰相であった蒋琬や費禕は、彼の才能を高く評価しましたので、学者としてはよほどに優れていたようです。
予言をすることはなかった
杜瓊の学問は奥深い領域に達していましたが、天文を読み取って未来の説を立てるようなことはしませんでした。
一方で、杜瓊と同じ学問を学んだ周羣は、未来を予測する説を立てて的中させ、それによって名声を得ていました。
後進の儒学者・譙周が予言をしない理由をたずねると、杜瓊は次のように答えています。
「この図讖という術は、明確に表現をするのが難しいもので、自分で天界の事象を観察し、その形と色を見分けなければならない。
他人の目は信用できず、朝から晩まで激しく働いて、ようやく見通しが立てられる。
しかし見通しを立てると、今度はそれが人に漏れないかと心配になる。
だから知らない方がよく、このために二度と観測はしないことにしたのだ」
未来の予測は、人の不幸な運命を読み取るものも多く、それが漏れると予言をした者が憎まれることにもなりがちです。
「人に漏れないかと心配になる」というのは、うかつに予言をして、それが我が身を害することを懸念しての発言でしょう。
事実、蜀では張裕という者が漢王朝の滅亡と劉備の死を予測したために、処刑されたことがありました。
当塗高の予言
譙周はさらに「昔、周舒は『当塗高とは魏である』と述べました。これはどういう意味なのでしょう」とたずねます。
これはもともと『漢に代わるものは当塗高だ』と書かれた予言が存在しており、それに対し周舒という学者が解釈を行ったことを指しています。
杜瓊は「魏とは宮城の門の名称で、塗(道)に当たって高くそびえている。
予言の作者は、類推できるものを用いて説明したのだ」と答えました。
そして譙周に「まだわからないことがあるかね?」とたずねます。
すると譙周は「まだ十分には理解できません」と答えたので、杜瓊は言葉を重ねました。
「昔は官職のことを『曹』とは言わなかった。
漢代になってから初めて官のことを曹というようになり、吏(役人)を『属曹』と呼び、卒(役所の下働き)を『侍曹』と呼ぶようになった。
これは天の意志だと言えよう」
この発言は、漢に魏が取って代わりましたが、その魏を支配するのが曹氏であることを指して述べたものです。
「属曹」や「侍曹」はいずれも「曹氏に仕える、従う」という意味であり、役人たちが曹氏に従うのですから、「曹氏が天下を支配する」ことを意味します。
このような言葉が自然に使われるようになったことが、天の意志を示している、と杜瓊は解釈を下したのでした。
古代の中国ではこのように、言葉の用いられ方によって、事象を解釈する学問の一派があったようです。
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