劉永 劉備の子として魯王になり、蜀の滅亡後も子孫が生き延びる

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劉永りゅうえいあざな公寿こうじゅといい、劉備の子です。

劉禅の異母弟であり、劉備が蜀の皇帝に即位した際に、王になりました。

中国の王室では、一族を地方の王に封じ、藩国を作って王室の支えとする慣習がありました。

このために劉永は王となったのです。

なお、弟の劉理はりょう王となっています。

魯王の任命書

劉永を魯王に封じた際の、任命書は次のようなものでした。

「小子永よ、この青き土(東方の地)を受けよ。

朕は天意を受け、皇統と大業を継承したが、古代の習いにしたがい、汝の国を建て、東土に封じる。

山・もう山(魯にある山)を治め、代々の藩国たれ。

朕のみことのりを慎んで受けよ。

魯の国は、一つ変化があれば道義に適う土地であり、教化が行き渡っている。

人々は徳を好み、代々善美を伝えている。

王は心にかたく礼を守り、なんじの士民を安んぜよ。

そうすれば、天は汝の祭祀を受け、その行いを認めるだろう。

そのことを心に戒めよ」

このような書状を、司徒の許靖きょせいを使わして劉永に渡したのですが、実際には魯国は魏の領土となっており、名目だけのことでした。

蜀は漢王朝を引きつぎ、中国全土を支配するべき存在でしたので、魯王の号を用いたのです。

実際の領地は、蜀のいずこかだったのでしょう。

諸葛亮を父と思うように遺言される

223年になると、劉備は重病にかかって床に伏すようになるのですが、その際に、劉永に次のように言い遺しています。

「わしの死後、おまえたち兄弟は丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ。そして大臣たちが、丞相に協力して事を成すようにしむけるのだ」

劉備は自分の死後、漢王朝を復興させる志を諸葛亮に託し、蜀の全権を任せる意向でした。

このため、次の皇帝となる劉禅や、弟の劉永に対し、諸葛亮を父親と思って仕えるように諭したのです。

そうすることで、蜀の内部が分裂し、国力が弱まるのを防ごうとしたのでした。

ちなみに、この時に劉禅は17才でしたので、弟の劉永もまた十代だったのだと思われます。

劉備はまだ少年でしかなかった子どもたちの行く末を、諸葛亮に託したのでした。

甘陵王に改封される

230年になると、劉永は甘陵かんりょう王に改封されています。

この前年、229年に、諸葛亮は皇帝を名のった呉の孫権と、改めて同盟を締結しました。

魯は呉との国境地帯にあったため、劉永がこの地の王を名のることで、呉と争いになるのを避けるために、号を変更したのです。

ちなみに甘陵は州にありましたので、こちらも実際には魏の領土でした。

黄皓によって遠ざけられる

劉禅が皇帝に即位してからしばらくすると、宦官かんがん黄皓こうこうが劉禅に取り入り、重用されるようになります。

劉永は黄皓を憎んでおり、不仲でした。

このため、黄皓は蜀の国政を任されるようになると、劉永の悪口を劉禅に吹き込むようになります。

このため、劉禅は次第に劉永を疎むようになり、十余年にも渡って、朝廷での謁見を許しませんでした。

このあたりの様子からも、蜀の末期の政情が乱れていたことがうかがえます。

魏の諸侯となる

263年になると、蜀は魏の侵攻を防ぎきれず、降伏することになりました。

すると劉禅は、魏によって安楽公に封じられ、帝位を失ってその臣下となります。

他の王族たちもそれぞれに地位を与えられましたが、劉永は洛陽に移された後で、奉車都尉ほうしゃとい(皇帝の車の管理官)に任命され、郷候に封じられました。

こうして劉永は、魏の諸侯となってから亡くなっています。

没年は不明です。

孫の劉玄が生き延びる

その後、魏は司馬氏の簒奪を受け、しんに国号が変わりました。

蜀の元王族たちの待遇は変わりませんでしたが、やがて永嘉えいかの乱という、307年から312年に渡る大規模な反乱が起き、これによって晋が滅亡します。

この過程で、劉禅の子孫はことごとく滅びました。

ただ、劉永の孫の劉げんだけが生き延びて、蜀に逃亡しています。

この頃、蜀は李雄りゆうという者が、成漢せいかんという国を作って支配していました。

李雄は劉玄を迎えると、安楽公に任命して劉禅の後を継がせます。

やがて李雄が亡くなると、一族の李勢が蜀を支配するようになりました。

しかし李勢は大臣たちを粛正するなどして国力を弱らせ、347年に東晋の討伐を受けることになります。

この時に孫盛という史家が、李勢の討伐に参加しました。

そして「劉玄に成都で会った」と記しています。

劉玄のその後の動向は不明ですが、もしも子孫が生き延びたとすると、劉永が劉備の血統を伝えたことになります。