司馬朗は曹操に仕え、地方官として活躍した人物です。
後に晋王朝の祖となった、司馬懿の兄です。
司馬朗は曹操に招聘されると、各地で地方長官を務めます。
そこで善政をしいたので、民に慕われ、人格者として名声を得ました。
軍中に疫病が流行すると、自ら薬を兵士たちに渡すなどしていたわりましたが、やがて自身も病にかかってしまい、死去しています。
この文章では、そんな司馬朗について書いています。
温に生まれる
司馬朗は字を伯達といい、河内郡・温県の出身でした。
一七一年に誕生しています。
祖父も父も地方の長官を務めており、代々漢に仕えてきた家柄です。
司馬朗は長男として生まれ、弟には司馬懿がいました。
幼くして才気を示す
司馬朗が九才の時、彼の父の字をそしる者がいました。
すると司馬朗は「他人の親を馬鹿にする人は、自分の親を尊敬しない人です」と指摘します。
そしった者はこれを聞くと、司馬朗に謝罪しました。
やがて十二才になった時、司馬朗は経書の試験を受け、童子郎になります。
この時、試験監督は司馬朗の体が大きく立派だったので、年齢を偽っているのではないかと疑いました。
司馬朗は「私の父方も母方も、いずれも親類たちがみな大柄なのです。私は幼弱ではありますが、無理に出世したいとは望んでいません。年齢を偽って早成を願うのは、私の望むところではありません」と答えます。
これを聞いた試験監督は、司馬朗には見どころがあると思いました。
このように、司馬朗は若くして聡明なところを示していたのでした。
李邵に助言する
やがて董卓が台頭すると、関東は戦乱にみまわれるようになります。
もと冀州の刺史(長官)だった李邵は、野王で暮らしていたのですが、険しい山地に近いところだったので、もっと暮らしやすい温に引っ越したいと考えていました。
これを聞いた司馬朗は、李邵に告げます。
「唇が滅ぶと歯が危うくなる、という比喩がありますが、これはただ春秋時代の虞や虢(いずれも国名)だけにあてはまる話ではありません。温と野王の関係も同じです。
いま、野王を去って温に移住しても、それは朝に滅亡するはずだったのを、夕方に伸ばしたというだけのことです。
あなたは国の人々の期待を背負われている方です。いまあなたが安全を求め、賊たちが来ないところに移住しようとすると、山の近くに住む者たちは、きっとあわてふためくでしょう。
これは民の心を動揺させ、悪事が発生しやすい状況を招くことにつながります。郡の治安のために、このことを心配しています」
しかし李邵は司馬朗の意見を聞き入れず、温に移りました。
すると司馬朗が危惧した通り、山沿いの地域の住民たちが動揺して内地に移住し、盗賊になって各地を荒らし回る者たちが増えてしまいました。
董卓の追求を逃れる
董卓は関東で反抗する勢力が強まると、皇帝を長安に移住させ、遷都することにします。
司馬朗の父・司馬防は治書御史(法務官)の地位にあったので、長安に移らなければならなくなりました。
しかし各地が乱れていることから、司馬朗に命じ、家族を連れて郷里に帰らせることにします。
すると、司馬朗が逃亡するつもりなのだと密告する者が現れ、捕縛され、董卓のもとに引き出されてしまいました。
董卓は司馬朗に「卿は死んだ我が子と同じ年齢だそうだな。それなのに、もう少しで裏切られてしまうところだった」と言います。
この危機的な状況において、司馬朗は次のように申し述べました。
「公は世俗を越えた徳を備えられ、困難な時代に遭遇されましたが、汚れを清められ、広く賢士を取り立てておられます。
これは無私な心によって考えをめぐらせているからで、近いうちに乱は収まり、平和な時代が訪れるでしょう。
ご威光と徳は盛んで、功業は明らかでありますのに、毎日のように戦いが起こり、州郡は乱れ、民は心を落ち着けて生業に励むこともできず、財産を放り出し逃げ隠れています。
各地の関所で逃亡を取り締まり、重く刑罰を課しても、なお完全に防ぐことはできません。これこそが、私が気を病んでいることです。
どうか公は過去の出来事を考慮し、いま少し慎重にご判断なされてください。そうすれば、栄ある名は日や月とともに輝き、伊尹や周公ですらも、比較できないほどの存在になられるでしょう」
(伊尹と周公は、いずれも王を補佐して優れた事績を残した宰相たちです)
董卓は「わしもそれには気がついている。卿の言葉はもっともだ」と答えました。
こうして、司馬朗は董卓を称賛しつつ、いさめる態度を見せることで、董卓から危害を加えられることを避けたのでした。
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