温恢は字を曼基といい、并州の太原郡・祁県の出身でした。
父の温恕は涿郡の太守になってから亡くなっています。
この時、温恢は十五才でしたが、棺を送って郷里に戻りました。
家は家だったのですが、温恢は「いまの乱れた世の中で、富など持っていても仕方がない」と言い、ある日、すべての財産を一族の者たちに分け与えてしまいます。
郷里では温恢の行動は立派だとして評判になり、前漢末の郇越と比較しました。
地方長官として活躍する
その後、温恢は孝廉に推挙され、廩丘の長、鄢陵、広川の令、彭城の相、魯の相など、地方の長官を歴任します。
これらすべての任地で、その統治は評判となりました。
やがて中央に入って丞相主簿(曹操の側近)になります。
それから外に出て、揚州の刺史(長官)に昇進しました。
曹操の言葉
曹操は温恢を揚州に送り出すに際し、次のように言葉をかけています。
「卿を側に置いておきたいと思うのだが、この州の統治は重大なので、そうもいかない。『尚書』では『股肱の臣が優れていれば、庶事はみな安らかである』という。州の治中(重役)には、蒋済を任命せよ」
蒋済は揚州の地方官で、優れた才腕を備えていたことから、曹操に高く評価されていた人物です。
蒋済は丹陽の太守でしたが、この命を受け、温恢の元で治中(州の重役)になっています。
また曹操は合肥で呉に備えている張遼や楽進に対し「揚州の刺史は軍事に熟達している。よく相談してから行動を決定せよ」と伝えました。
揚州は孫権の勢力がその大部分を支配し、敵対していましたので、この地の刺史に任命されたことで、温恢が曹操から高く評価されていたことがうかがえます。
荊州の事態を予測する
二一九年になると、孫権が合肥を攻撃してきました。
この時、各地の州はそれぞれ守備のために兵を駐屯させていましたが、温恢は兗州刺史の裴潜に、次のように話しました。
「このあたりには賊軍が攻めてきているが、さほどの心配はいらない。それよりも気にかかるのは、征南(荊州)の軍に不慮の事態が発生するのではないかということだ。
いま、河川の水量が増加しているが、子孝(征南将軍の曹仁)は敵地で孤立しており、これから起きる危機に備えていない。
関羽は勇猛かつ鋭敏なので、彼が状況の有利さに乗じて進軍してきたら、災いが引き起こされることになるだろう」
この予測は的中し、関羽が北上して樊城を攻め、曹仁は城内に追い詰められました。そして援軍に駆けつけた于禁が洪水の影響によって関羽に降伏し、荊州の曹操勢力は危機に陥ります。
裴潜に助言を送る
やがて詔勅が発せられ、裴潜や豫州刺史の呂貢らが南方に呼び寄せられましたが、ゆっくり移動するようにと命じられていました。
これを知った温恢は、密かに裴潜に伝えます。
「これは襄陽(荊州)の危機に駆けつけさせようとしているのだろう。急がせないのは、遠方に住む民を驚かせ、動揺させることになるからだ。
一、二日すれば、必ず密書が届き、卿に早く到着するようにとせかすだろう。張遼たちもまた召集されるだろうが、張遼たちはかねてより王(曹操)の意図をよく理解している。
彼らが後から召集されたにも関わらず、先に戦地に到着したならば、卿はとがめられることになるだろう」
裴潜はこの言葉を受けると、輸送隊を後に残し、軽装にしてすぐに出発しました。
すると行軍を急ぐようにと催促を受けます。
それから張遼たちが召集されており、すべて温恢が予測したとおりに事態が進行しています。
このようにして、温恢には広く事態を見通し、対処する力が備わっていたのでした。
曹操が温恢を揚州刺史にしたのは、こういった才能を買ってのことだったのでしょう。
涼州に向かう途中で亡くなる
やがて曹丕が魏の皇帝になると、温恢は侍中(皇帝の側近)に任命されました。
それから魏郡の太守をへて数年後、涼州刺史・持節領護羌校尉に昇進します。
この時期、涼州は蜀と国境を接していましたので、またしても外敵への対処が必要な地域の統治を担当することになったのでした。
しかしその道中で病気にかかり、亡くなってしまいます。
四十五才でした。
この時に詔勅が出されています。
「温恢は国家の柱石を担う資質を備え、先帝によくお仕えし、その功績ははっきりとしている。そして朕のために政務をとりおこない、王室に対して忠誠を尽くしていた。
ゆえに、彼に万里の地の任務を授け、一方の統治を任せることにしたのである。しかしなんということか、中途にして倒れてしまった。
これをはなはだ悼むものである」
温恢の子の温生は関内侯の爵位を与えられましたが、早くに亡くなったので、断絶してしまっています。
温恢について
温恢はいくつかの挿話や、呉や蜀に接する地域の統治を担当した経歴からして、優れた能力を持った人物だったようです。
しかし裴潜との関わり以外にはそれを示す話が乏しく、おそらくは記録があまり残っていない人物だったのでしょう。
子が早世し、爵位が断絶したことが影響したのだと考えられます。
三国志はこのように、地位の割に記述が少ない人物が散見されます。