張既 西方を鎮めた魏の名臣

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張既ちょうきは曹操や曹丕に仕え、西方で活躍した人物です。

文武に秀でており、反乱が多発する涼州やよう州を統治し、情勢を安定させることに成功しました。

馬騰ばとうを入朝させ、馬超を討伐し、その後、何度も起きた反乱を鎮圧しています。

そして西方の人材を数多く推薦しましたが、いずれも地位と名声を得ており、人を見る目もありました。

この文章では、そんな張既について書いています。

馮翊に生まれる

張既はあざな徳容とくようといい、馮翊ひょうよく郡・高陵こうりょう県の出身でした。

ここは西方の中心地である、長安に近い地域です。

張既の家は名家ではありませんでしたが、容貌に優れ、俊敏な性質を備えていました。

子供のころから書簡の扱いが巧みだったので、やがて郡の書簡を取り扱う小吏になります。

張既はやがて、ある程度の財を得るようになりましたが、名門の出身ではなかったので、自力で昇進するのは難しいだろうと考えます。

このため、いつも上等な小刀と、筆と書板を用意しておきました。

この時代は木の板に文字を書き込むので、修正する際に小刀で削ります。このため、役人には必須の道具だったのでした。

張既は上級の官吏の中に、道具が不足している人を見つけると、そのつど用意していたものを贈ったので、やがて評判がよくなり、存在を認知されるようになります。

張既地図

西方の抑えにあたる

このようなわけで、張既は立身し、郡の高官を歴任しました。

そして孝廉こうれんに推挙されましたが、都には行きませんでした。

曹操は献帝を推戴し、司空(大臣)に任命されますが、やがて張既を召し寄せようとします。

しかしまだ張既が都に行かないうちに、今度は茂才に推挙され、新豊県の令(長官)に任命されました。

張既はそこで治績をあげ、三輔さんぽ(首都周辺の三つの地域)で第一だと評されます。

このようにして、張既はさらに身分を高めるきっかけをつかみました。

西方の抑えにあたる

このころ、曹操は河北の地をめぐって袁紹の子・袁しょうと争っていました。

袁尚は河東太守の郭援かくえん、并州刺史の高幹こうかんらに命じ、平陽を奪取させます。

またその一方で、使者を西方に送り、関中の将軍たちと手を組もうとしました。

これに対応するため、西方の抑えを曹操から任されていた、司隷校尉の鍾繇しょうようが動きます。

鍾繇は張既を送って関中に向かわせ、将軍の馬騰たちを説得させます。

張既が利害を説くと、馬騰たちはそれに納得し、曹操側につくことを受け入れました。

馬騰は子の馬超に一万の兵を率いさせ、鍾繇と合流させます。

そして鍾繇らはともに郭援と高幹を攻撃し、撃破しました。

郭援は首を取られ、高幹は降伏し、曹操陣営が有利になります。

河内や河東の平定に貢献する

その後、高幹はへい州をあげて反乱を起こしました。

また河内の張晟ちょうせいは一万の軍勢を率いて独立し、周辺の地域を荒らして回ります。

そして河東の衞固えいこ弘農こうのう張琰ちょうえんもまた、それぞれ兵をあげて張晟に合流しました。

このように、袁尚の勢力を打ち破っても、司州の周辺は荒れた状況が続きます。

そんな中、曹操は張既を議郎に任命し、鍾繇の元で軍事に参与するようにと命じました。

このため、張既は再び西方に向かい、馬騰らを呼び寄せます。

すると馬騰らは集合し、張晟の勢力を打ち破りました。

そして張琰と衞固の首を取ると、高幹は荊州に向かって逃走し、反乱が鎮まります。

張既は西方の将軍たちを動かすことに成功し、この功績によって武始亭候の爵位を与えられました。

【次のページに続く▼】