反乱者たちを争わせる
このころ、雍州では武威の顔俊、張掖の和鸞、酒泉の黄華、西平の麴演らが郡をあげて反乱を起こし、勝手に将軍を名のり、互いに争いあっていました。
その中でも顔俊は、使者を送って母と子を人質として曹操のもとに送り、援助を求めてきます。
曹操が対応を相談したので、張既は次のように答えています。
「顔俊らは、外向きには我が国の威光を借りながら、内側では不遜な心を抱き、従うつもりはありません。事態が思惑どおりに進み、勢いを得ればすぐに反逆するでしょう。
いまは蜀の平定に力を注いでおりますので、どちらも並立させておき、互いに争わせた方がよろしいと思われます。
戦国時代に卞莊子が虎を倒した際に、二匹の虎が争っているのを見て、共倒れになるのを待っていたのと同じです」
曹操はこの意見を採用しました。
それから一年がすぎると、和鸞が顔俊を殺害し、和鸞は王必という者に殺害され、勝手に反乱者たちの勢力は弱まっていきます。
このようにして、張既が予測したとおりに事態が進行したのでした。
涼州が設置される
このころ、魏は涼州を設置しておらず、三輔と西域はみな雍州に属しています。
曹丕が魏王になると、新たに涼州が設置され、安定太守の鄒岐が刺史(長官)に任命されました。
すると張掖の張進が郡太守を捕縛して挙兵し、鄒岐の就任を認めませんでした。
また黄華と麴演も太守を追い出して挙兵し、張進に同調します。
このため、張既は兵を進軍させ、護羌校尉である蘇則を支援すると宣伝しました。
この結果、蘇則は手柄を立てることができ、張既は都郷候に昇進します。
このようにして、涼州では反乱が多発していましたが、太守の蘇則や毌丘興らが民を慰撫し、反乱軍を討ったので、情勢が安定していきました。
張既は彼らの優れた働きぶりを朝廷に報告し、爵位や恩賞が与えられるように取り計らっています。
涼州の反乱に対処する
ついで、涼州・盧水の異民族である健妓妾と治元多らが反乱を起こしたので、河西では大きな混乱が発生しました。
曹丕はこの事態を懸念し、「張既でないと、涼州を安定させることはできまい」と言い、鄒岐を呼び戻し、張既と交代させます。
そして次のような詔勅が出されました。
「その昔、賈復が郾賊を討伐すると申し出た時、光武帝は笑いつつ『執金吾(賈復)が郾を討伐するのなら、何の心配もいらない』と言われた。卿は智謀が優れているが、今こそそれを用いる時である。状況に応じて適切に対応すればよく、あらかじめこちらの判断を仰ぐ必要はない」
このようにして、張既には独自に判断する権限が与えられました。
曹丕は護軍の夏侯儒や、将軍の費曜を送って張既に後続させます。
張既は金城までやってくると、そこで黄河を渡ろうとしました。
すると将軍や太守たちは「兵力は乏しく、道は険しいので、深く侵入するのは困難です」と述べます。
これに対し張既は「道は険しいが、井陘の隘路とは違う。蛮族たちは適当に寄り集まっているだけで、李左車の計略をたずさえているわけではない。いま武威は危機的な状況にあるので、できる限り早く駆けつけなければならない」と答えます。
井陘の隘路とは、漢の大将軍・韓信が趙を攻める際に通った狭い道のことです。
李左車は、そこを通過する韓信軍を襲撃すれば勝利できるという策を立てたことで知られています。
李左車のように優れた策士が敵にいるわけではないので、険しい道を踏破しても問題は起きない、というのが張既の主張でした。
こうして張既は黄河を渡ります。
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