反乱軍を撤退させ、追撃する
反乱軍は七千の兵力で鸇陰口の守りを固め、官軍を迎撃しようとしました。
張既は鸇陰を通ると宣伝しておいてから、密かに且次を通って武威に到着します。
反乱軍はこれを知ると、神業だとして驚き、顯美に撤退しました。
張既が武威を占拠すると、それからようやく費曜が到着しましたが、夏侯儒はまだやってきていませんでした。
張既は将兵をねぎらい、褒美を与えます。そしてさらに軍を進め、反乱軍を討伐しようとしました。
すると将軍たちは「兵士たちは疲弊しており、敵は数が多く、士気も高い状態にあります。いま彼らと戦うのは困難です」と主張しました。
張既は「いま、我が軍は食糧が乏しい状態にある。だから敵から補給しなければならない。もしも敵軍が、我が軍が集結するのを見て、撤退して山に立てこもれば、追撃をかけても道が険しく、困難におちいって飢えることになる。
それから兵を戻そうとしても、偵察を出されて荒らし回られることになる。このような状況では兵を休ませるわけにはいかない。『一日敵を見逃せば、数代に渡って災厄を受ける』というのはこのことだ」と言います。
こうして張既は後続を待たず、手持ちの部隊のみで顯美に出撃しました。
反乱軍を伏兵によって打倒する
反乱軍の数千の騎兵が強風を利用し、放火して軍営を焼き払おうとしてきたので、魏の将兵は不安にかられる事態になります。
しかし張既はまったくひるまず、夜の間に精鋭三千を伏兵として隠しておき、参軍の成公英に千騎を率いさせ、敵に挑ませました。
そしてあらかじめ、負けたふりをして退却するように命じておきます。
成公英が作戦どおりに撤退すると、反乱軍は争って追撃をかけてきました。
これを受け、張既は伏兵を出撃させて退路を断たせ、前後から挟み撃ちにして散々に打ち破ります。
首をとったり捕縛した反乱軍は万単位にものぼり、張既は大勝を収めました。
このように、張既は戦場での指揮能力も優れていたのでした。
称賛され、地位が高まる
この勝利に曹丕は喜び、詔勅を出しました。
「卿は黄河を越え、険しい道を通り、疲労した軍を率いて活力のある敵を攻撃し、少数の兵で多数の敵に勝利した。その功績は南仲を越え、仕事ぶりは尹吉甫以上である。(彼らは西方や北方で活躍した古代の将軍です)
この勲功は単に蛮族を打ち破ったというだけのことではなく、永久に河西を平定し、我が国の西方に対する憂いを取り除いたことにある」
このようにして張既の働きを絶賛し、西郷候に国替えし、二百戸を加増して四百戸にしました。
羌族を撃破する
その後、酒泉の蘇衡が反乱を起こし、羌族の有力者である鄰戴と丁令が率いる一万余騎と一緒に、国境付近の県を攻撃してきます。
張既は夏侯儒とともに出撃してこれを打ち破り、蘇衡や鄰戴らを降伏させました。
張既は上奏して左城を修復し、砦を築き、物見櫓と食糧の貯蔵庫を設置して、蛮族に備えたいと願い出ます。
この影響で、西羌族は恐れを抱き、二万以上の民を連れて降伏しました。
羌族を説得して反乱を鎮める
こうして張既は平定を進めていきますが、今度は西平の麴光らが郡太守を殺害します。
将軍たちは攻撃を計画しますが、張既は次のように主張しました。
「麴光らが反乱を起こしたが、郡民たちがみな同調したわけではない。もしもすぐに軍を送れば、官吏と民、羌族は我が国が善悪の基準なく処罰するのだと考え、団結してしまうだろう。これは虎に翼を与えるようなものだ。
麴光らは羌族の協力を得ようとしているが、先手をうって羌族に、麴光らを攻撃するように働きかける。そして彼らに多くの恩賞を与え、捕獲したものはすべて与えてしまう。
そうすれば外に向けては敵の勢力をそぎ、内にむけては友好関係を断つことができ、戦わずして情勢を落ち着かせることができるだろう」
張既は布告文を出して羌族たちを説得し、麴光に騙されて参加した者たちを赦免し、賊の指揮官の首を送ってきたら、領土や恩賞を与えると約束しました。
この結果、麴光の仲間は寝返り、麴光の首をとって送ってきます。
そして張既が述べたとおりに反乱が収まり、情勢が安定しました。
以前は急いで攻めることで反乱を鎮め、この機会には策謀をもって反乱を鎮めました。
張既は状況に応じて柔軟に策を検討できる、優れた人物だったことがうかがえます。
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