張魯は後漢末期において、漢中に割拠した人物です。
この頃には、地方で独立を目指した勢力は数多いのですが、張魯は「五斗米道」という宗教団体を母体としたところが特徴的でした。
太平道を母体とした黄巾と似ていますが、張魯は反乱を起こしたりはせず、曹操の討伐を受けると潔く降伏したことで、滅亡はしませんでした。
そして従順な態度を曹操から高く評価され、爵位を与えられて生涯をまっとうしています。
この文章では、そんな張魯の生涯を書いてみます。
沛国に生まれる
張魯は字を公祺といい、沛国の豊県で誕生しました。
生年は不明となっています。
張魯の家は代々、道術を修めてそれを広める活動を行っていました。
道術とは、仙人になることを目的として行われる修練のことです。
祖父の張陵がその起源で、彼は蜀に身を寄せ、鵠鳴山の山中で道術を学び、その経験を元に著作をしました。
そして習得したことを人々に教え、かわりに五斗(約10リットル)の米を礼として受け取り、その仕組みによって教団を形成します。
道術は世の当たり前の価値観からは外れた思想ですので、張陵は人心を惑わしている、と批判されました。
また、米を受け取っていたことから、「米賊」という名で呼ばるようになります。
賊と名づけられたことから、世間からは怪しまれていたことがわかります。
つまりは現代における、新興宗教の教祖のような存在だったと言えるでしょう。
【張陵の肖像画】
祖父と父から基盤を受け継ぐ
やがて張陵が亡くなると、その子の張衝(張魯の父)が後を継ぎました。
そして張衝も亡くなると、その子の張魯が後継者になります。
つまり、張魯は道術教団の三代目だったのでした。
しかし父・張衝の代で一度教団は壊滅しており、張魯は一からそれを構築しなおすことになります。
劉焉に仕え、漢中を支配する
張魯の母は巫術を使い、若々しい姿をした女性でした。
(巫術はシャーマニズムのことで、卜占や予言、治療などを行う術です)
母は益州の支配者である、劉焉の家に頻繁に出入りし、その歓心を買うようになります。
そして母は劉焉に対し、息子の張魯に地位を与えてくれるようにと働きかけました。
この結果、張魯は督義司馬(武官の地位)に任命され、漢中に向かうことになります。
劉焉は蜀に独立した勢力を築こうと考えており、張魯を漢中に駐屯させ、後漢の朝廷との連絡を絶たせるのが、その目的でした。
張魯はひとまず劉焉の思惑通りに動き、朝廷からの使者を殺害し、都の長安とつながる橋を破壊して、通行を遮断します。
劉焉は自分でそうさせておきながら、朝廷には「米賊が道路を遮断したため、都と連絡が取りづらくなりました」とぬけぬけと通達しています。
こうして張魯は劉焉に利用されたわけですが、張魯もまた、劉焉を利用して漢中に勢力を築くことを画策しました。
劉璋と敵対する
張魯は漢中に入ると、自分とともに派遣された張脩を攻撃し、その軍勢を奪い取ります。
こうして軍事力を高めると、張魯は漢中に割拠し始めました。
この地はかつて父・張衝が布教を行い、人々に影響を及ぼしています。
張衝の教団はその後、他勢力の攻撃を受けて滅びましたが、その教えはまだ一部の住民たちの間に残っており、張魯が受け入れられやすい基盤があったのだと言えます。
(あるいは、張脩が漢中に別の教団を形成しており、それを張魯が乗っ取ったのだとも言われています)
そして劉焉が病死して、その子の劉璋が益州の支配者になると、張魯はその命令をたびたび無視するようになりました。
劉璋は劉焉に比べると統治能力が低く、与しやすい相手でした。
劉璋は自分に従わない張魯に腹を立て、その母と弟を殺害してしまいます。
このため、張魯と劉璋は仇敵の間柄となりました。
【張魯と劉璋が争っていた頃の勢力図 南西部に勢力があった】
龐義を撃退して漢中を守る
やがて劉璋は部下の龐義を派遣して、張魯に攻撃をしかけてきます。
張魯はその軍勢の多くを巴西の地に集結させ、これをたびたび撃退しました。
このため、劉璋は龐義を巴西太守に任命し、張魯を討たせようとします。
しかし、やがて龐義と劉璋の関係にひびが入ったため、張魯への攻撃は弱まっていきました。
こうして張魯は防衛に成功し、漢中の支配者としての地位を確立していったのでした。
【次のページに続く▼】