馬超の乱によって住民が増える
やがて馬超と韓遂が涼州で反乱を起こすと、にわかに西方が騒がしくなりました。
これを曹操が討伐すると、戦乱を逃れるために、数万の人々が子午谷を通り、漢中に逃れてきます。
これによって漢中はますます人口が増えましたが、同時に曹操が迫ってきたことにより、張魯の独立は危うくなることにもなりました。
劉璋が劉備を招き寄せる
劉璋は長らく張魯を討伐することができませんでしたが、そのために今度は、劉備を蜀に招き寄せます。
そして劉備に張魯を討伐させようとしたのですが、やがて両者は仲違いをしました。
これは龐義の時と同じ展開ですが、劉璋は人を自分の味方につけ続ける能力が欠けていたようです。
劉備は劉璋を討つために戦い始め、張魯には向かってきませんでした。
こうして再び、張魯は漢中を保つことができましたが、その後にはついに、曹操が漢中にやってくることになります。
曹操の討伐を受ける
215年になると、曹操は張魯を討伐して漢中を支配下に置くため、陽平関にまで進軍してきます。
張魯は曹操にはかなわないだろうと思い、すぐに降伏を考え、使者を送りました。
このあたり、張魯は現実が見えている人間だったようです。
三十年にも渡って独立割拠をしていたら、普通はその立場への執着心が生まれ、なかなかそれを手放せないものです。
このことから、張魯は潔い人格の持ち主だったことがわかります。
張衛が抵抗する
このように、張魯はすぐに降伏つもりでした。
しかし弟の張衛は同意せず、数万の軍勢を率いて陽平関の守りを固めました。
曹操は陽平関に到着する前には、簡単に陥落させられるだろうと楽観していました。
しかし実際に攻撃をしてみると、要塞は堅固で、精鋭にとりかからせても、攻め落とせる気配がありません。
やがて食糧が乏しくなってきたことから、曹操は撤退を考えるようになります。
しかし、すでに張魯から降伏の使者が送られてきていたため、部下から踏みとどまるように進言を受けました。
このために曹操が迷っていると、夜になって野生の数千頭の鹿たちが、張衛の陣営に突入し、防衛施設を突き壊す、という珍事が発生します。
これに張衛の軍勢が仰天していると、曹操軍の高祚が、夜の闇に迷い、誤って張衛の陣営に侵入してしまいました。
焦った高祚がさかんに軍鼓を撃ち鳴らして味方を呼び集めると、張衛は大軍に急襲を受けたのだと勘違いし、降伏を申し入れます。
このようにして、陽平関においては、曹操は偶然の積み重ねによって、勝利を得たのでした。
ともあれ曹操は、ついに漢中に侵入することになります。
降伏を考えるが、ひとまず蔵を封印する
張魯は陽平関が陥落したと聞くと、地にひれ伏して、曹操に降伏しようとしました。
するとまたも閻圃が張魯に進言します。
「追いつめられた状態で出向いて行ったなら、曹操はあなた様への評価を低くするでしょう。
抵抗をした後で臣下の礼を取られれば、必ず評価が高くなります」
張魯は今度も閻圃の意見は正しいと思い、ひとまず巴中に逃れることにします。
この時に、張魯の側近の者たちは、財宝を納めた蔵を焼き払ってしまうつもりでした。
張魯は「わしは元々、国家に帰順をしたいと思いつつも、その願いが遂げられないでいた。
いま逃亡をするのも、曹操の矛先をかわすためであって、悪意をもっての行いではない。
財宝の入った蔵は国家のものなのだから、焼き払ってはならない」と言ってやめさせます。
そして、蔵に封印をしてから立ち去りました。
曹操が感心し、張魯に地位を与える
曹操は張魯の本拠だった南鄭に到着すると、財宝が無傷で残されていることに感心し、「張魯は本来善良な心を持った人間なのだろう」と高く評価しました。
そして使者を送って張魯を慰撫し、降伏するよう説得します。
すると張魯は家族を連れ、曹操の元に出頭しました。
曹操はこれを出迎えて歓待し、張魯に鎮南将軍の位を授け、賓客として待遇します。
そして閬中候という爵位と、一万戸という、膨大な領地をも与えました。
(曹操の功臣たちでも、せいぜい数千戸を与えられているだけでした)
そのうえ、五人の子供と閻圃をすべて列侯とし、張魯の娘を、息子の曹宇の嫁として迎え、縁戚関係にもなります。
このようにして、張魯は悪あがきをしなかったために、降伏してもなお、高い地位を保ちました。
これには閻圃という優秀な補佐役を選び、用いたことが功を奏したのだとも言えます。
張魯が翌年に逝去すると、原候という諡を受け、子の張富が後を継いでいます。
こうして張魯は、宗教の主催者から朝廷の高官に転じ、生涯をまっとうすることができたのでした。
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