関内侯とは

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関内候かんだいこうは漢の時代に、皇帝から臣下に与えられていた爵位です。

前漢・後漢では二十もの爵位があり、低い等級のものは一般庶民にも与えられていました。

この制度を「二十等爵にじっとうしゃく」といいます。

これによって皇帝と国民を直接結びつけ、身分制度を定めて国家の統治をやりやすくする意図がありました。

関内候はその中で上から二番目ですので、高い等級の爵位だったのだと言えます。

上には列侯があるだけでした。

封邑が与えられなかったという話の真偽

関内候と列侯は、封邑ほうゆうが与えられたか与えられなかったかで違いがあった、と言われていました。

封邑とは、税収を自分のものにできる土地のことを言います。

これによって高い爵位を与えられた者は、名誉と実利が得られたのですが、関内候には封邑を得る権利がなく、名誉のみの地位だとされていました。

しかし、実際には関内候にも封邑が与えられていた例が見つかっており、この解釈は間違いだったことがわかっています。

このため、関内候と列侯の違いは、主に等級だったことになります。

名前の由来と立場の変遷

関内候は、漢の前に天下を統一したしんの時代から使われていた名称です。

「関内」は秦の本拠である、「函谷関かんこくかんより西の領域」を指し、そこに封邑を持つ者たちが、まとめて関内候と呼ばれていました。

この時代において関内候は総称であり、個々の人間に与えられる爵位ではありませんでした。

やがて漢が建国されると、皇帝になった劉邦は、関内候に別の意味を付与します。


【二十等爵を定めた劉邦】

劉邦は建国に貢献した功臣たちに、列侯の爵位と封邑を与えます。

その一方で、列侯たちの一族には関内候の爵位を与え、都である長安(関内)の近辺に移住させます。

列侯たちは地方に領地を与えられ、そこに在住しましたが、このために劉邦の目が届かない場所にいることになりました。

劉邦は彼らが謀反を起こしたりしないよう、一族を関内候にして都の近くに住まわせ、人質のように扱ったのです。

これは江戸時代において、徳川幕府が将軍のお膝元である江戸に、諸大名の妻子を住まわせたのに似ています。

このために関内候は列侯の下に置かれ、列侯の一族に与えられる爵位になったのでした。

漢が建国されたばかりで、国内情勢が不安定だったため、このような措置がとられたのです。

立場の変化

その後、漢の統治が安定すると、関内候の立場も変化していきます。

官僚の地位が高まって丞相じょうしょう(首相)などの高位に上り詰めると、あわせて列侯の爵位が与えられるようになりました。

列侯に封じられる季節は春だと決まっていたのですが、その前に都(関内)に滞在している間に、ひとまず関内候の爵位が与えられます。

そして春が来ると、列侯に昇進しました。

このように、関内候は列侯に登るための、準備段階の爵位へと扱いが変わっていったのです。

三国志で関内候になった人物

三国志においては、名を知られた人物はおおむね爵位を与えられており、関内候になった人物も多数います。

そのうちから何人かを紹介していきます。

張遼

張遼はもともとは呂布に仕えていた武将ですが、呂布が曹操に敗れると、降伏して曹操に仕えるようになりました。

この時に中郎将という高級武官の地位と、関内候の爵位が与えられています。


【曹操に関内候を与えられた張遼】

曹操は降伏した有力な人物に、爵位を与えて自分に懐かせようとすることが多かったのですが、これもその一環だと言えます。

傅巽

傅巽ふそんは荊州を支配していた、劉表の臣下です。

彼は劉表の死後、荊州が曹操に攻めこまれた際に、劉表の後を継いだ劉琮りゅうそうに対し、曹操に帰順するように勧めました。

劉琮はこれを受け入れ、曹操に降伏して列侯となります。

そして傅巽は帰順を勧めた功績によって、関内候となりました。

形はやや違いますが、張遼の時と似ています。

龐統

龐統ほうとうは劉備に仕え、益州の奪取に貢献した軍師です。

しかしらく城を攻略中に、流れ矢に当たって戦死してしまいました。

劉備は龐統の死を大変に惜しみ、関内候を追贈し、せい候という諡号も贈っています。


【死後に関内候を追贈された龐統】

このように、死後に生前の活躍を称えるために、贈られることもあったのでした。

黄忠

黄忠は劉備に仕えて活躍した将軍です。

219年に漢中で、魏の重臣である夏侯淵を討ち取った功績によって、関羽や張飛と同等の地位にまで登りつめました。

そして後将軍となり、関内候も与えられています。


【老年になってから活躍した黄忠】

このように、劉備が勢力基板を確立する時期に活躍した者たちは、関内候を与えられることが多かったのでした。

 

こうして見られる通り、戦乱の時代である三国志においては、功績のあった者を顕彰するために与えられたり、降伏した者の忠誠心を高める目的で与えられるようになっていたのでした。

いずれも、各勢力が臣下の気持ちを引きつけるために用いていたのだと言えます。