黄門侍郎は中国の官職です。
皇帝の側近として、勅命を諸官に伝達する役目を担っていました。
「黄門」は宮中の門のことで、秦や漢の時代には、黄色く塗られる習慣があったことから、この名称がつけられています。
そして皇帝の侍郎(側近)は宮中の門のような存在であったことから、黄門侍郎と呼ばれたのでした。
黄門と略されたり、「給事黄門侍郎」と改称されたこともあります。
三国志では荀攸や鍾繇が就任
荀攸
荀攸は荀彧の甥で、子供の頃からその利発さで知られる人物でした。
大将軍の何進が、各地から名士を招いた際に朝廷に仕えるようになり、黄門侍郎に就任しています。
そして何進の甥である少帝弁の側近となりますが、やがて董卓が台頭し、弁を廃して弟を皇帝(献帝)に即位させました。
董卓はその後、弁を暗殺し、洛陽で略奪を行って廃墟に変え、住民を無理矢理に連れ去って長安に遷都するという横暴を働きます。
荀攸はこれに憤り、同僚たちと協力して董卓を誅殺しようとします。
しかし決行の直前に発覚したため、荀攸は逮捕されてしまいました。
荀攸は獄に入れられ、処刑されることになっても泰然とし、言葉づかいは乱れず、落ち着いた様子で食事もとっています。
荀攸はそのような、剛気な人柄の持ち主だったのでした。
そうしていると、間もなく董卓が呂布によって殺害されたので、危ういところを助かっています。
このように、動乱の時代になると、皇帝の側近も命がけの仕事になったのでした。
荀攸はこの騒動の後、中央を離れることを望み、荊州に移住します。
そして曹操に招かれるまで、しばらく世から隠れることになりました。
鍾繇
荀攸の後で黄門侍郎となったのが、鍾繇でした。
【黄門侍郎として献帝を補佐した鍾繇】
彼も学問に通じた秀才で、孝廉に推挙されて官吏となり、黄門侍郎に就任しています。
鍾繇が黄門侍郎になったのは長安に遷都し、董卓が暗殺された後のことです。
この頃に、曹操が兗州を支配するようになり、やがて献帝に使者を送ってきます。
当時の朝廷を支配していたのは董卓の元部下の李確と郭汜でしたが、彼らには統治能力がなく、長安は混乱に陥っていました。
このため、東部と西部は切り離されてしまい、東部では袁紹が勝手に他の皇帝を立てようとしたり、袁術が自ら皇帝になろうと計画するようになっていきます。
なので李確らは曹操の意志を疑い、本当に献帝に仕える気持ちは持っていないだろうと判断しました。
すると鍾繇が進み出て「ただいま英雄が各地で割拠し、各自が皇帝の命令と偽って好き勝手に行動しています。その中で曹操だけが王室に心を寄せているのに、むげにするのはよろしくありません」と述べました。
李確らは鍾繇の発言を聞くと考えを変え、曹操にねんごろに返信をしたので、曹操は献帝と連絡がつくようになります。
曹操はこの話を聞くと、鍾繇に一目を置くようになりました。
やがて李確らが献帝を脅かすようになったので、鍾繇は策を講じ、献帝とともに長安から脱出します。
諸侯がその身柄を巡って争いますが、最終的に曹操が献帝を迎え、ようやく情勢が落ち着いていきます。
鍾繇は曹操が献帝を得るのに功績が大きかったことから、侍中に昇進し、東武亭候の爵位を与えられています。
以後は曹操の腹心のひとりとして、その勢力の拡大に貢献しました。
このように、三国志で黄門侍郎の地位にあった者たちは、皇帝を守るために重要な働きをしていたのでした。
ちなみに、荀攸と鍾繇はともに曹操に仕えるようになってから大変に親しくなり、生涯に渡って友人の関係にありました。
日本における黄門
日本では徳川光圀が「水戸黄門」の異名で有名ですが、これは黄門侍郎に由来しています。
光圀は中納言の官職についていたのですが、これは天皇の側近であり、黄門侍郎と同等の官職だと見なされていました。
日本では官職名を中国風に呼ぶことがあり、このために光圀は「水戸の黄門さま」と呼ばれたのです。
これはドラマの設定ではなく、光圀が亡くなった際に「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」という狂歌が作られていることから、当時からそう呼ばれていたことがわかります。