驃騎将軍とは 三国志では馬超や司馬懿が就任

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驃騎ひょうき将軍は中国の官職名です。

前漢・武帝の時代に創設されました。

「驃騎」は「白まじりの赤栗毛の馬」や「馬が疾走する様子」を意味しています。

初めて任命されたのは、匈奴きょうどという異民族の討伐で大活躍した霍去病かくきょへいです。

霍去病は騎射に優れており、18才の時に初めて匈奴の征伐に参加すると、何度も武功を立てました。

そして19才の時に、一度の戦いで3万もの首級を得る大戦果をあげています。

この功績によって紀元前121年に、武帝から驃騎将軍に任命されました。

匈奴は騎馬民族でしたので、驃騎将軍には「騎兵を征するもの」という意味合いがあったと思われます。

大将軍が漢軍の最上位で、霍去病の叔父・衛青が就任していました。

驃騎将軍はこの大将軍につぐ、漢軍のナンバーツーの地位として設置されました。

その後、霍去病が前119年に匈奴の本拠地を陥落させると、驃騎将軍の秩禄は大将軍と同じになります。

そして霍去病は大司馬という称号を与えられ、衛青に並び立ちますが、わずか24才で病のために亡くなりました。

このように、驃騎将軍は霍去病のために作られ、彼が短い期間でその権威を確立した地位なのだと言えます。

特徴

将軍階級の中では大将軍の下で、車騎将軍や衛将軍の上位に格付けされています。

幕府を開く権限を持っており、独自に長史や司馬、軍師など多くの属官を任命して、軍を運営しました。

(日本で武家が政庁として幕府を開く制度は、このような中国の軍制が起源となっています)

常設ではなく、反乱が起きた際に任命され、討伐軍を指揮することになっています。

現代で言えば元帥にあたる、非常に高い地位です。

三国志では

後漢や蜀・魏・呉でも、それぞれに驃騎将軍は任命されています。

蜀では馬超が221年に、皇帝になったばかりの劉備から、この地位を与えられました。

馬超は蜀から見れば賊である曹操と戦った経験がありましたので、経歴からするとふわしい人物だったと言えます。


【蜀の驃騎将軍になった馬超 しかしその翌年に死去している】

その後は諸葛亮の主簿(秘書官)を務めていた胡済こせいが、248年に就任していますが、後に姜維との連携がうまくいかず、段谷の戦いの敗因を作っています。

魏では司馬懿が226年に、呉の諸葛瑾らを撃退した功績によって、驃騎将軍に昇進しました。

呉では最初に歩隲ほしつが就任し、以後も多くの臣下が任命されています。

その後

隋や唐の時代にも驃騎将軍は存在しており、軍の中核を担っています。

しかしその後、折衝都尉せっしょうといという地位に吸収され、驃騎将軍という役職は消滅し、実権が失われました。

一方で、称号としてはその後も用いられ続け、唐における従一位(最高位)の武官は、驃騎大将軍という名称で呼ばれました。