孫策は後漢の末期において、短期間で揚州に一大勢力を築いた人物です。
非常に戦いに強く、その手腕と勢いは、曹操をも恐れさせました。
しかし孫策は揚州平定の過程で、多くの群雄を殺害したことから恨みを買い、やがて仇討ちにあって、若くして死去してしまいます。
後事を弟の孫権に託すと、その孫権が呉の皇帝になるほどに勢力を伸ばしました。
すると孫策がその基盤を作り上げたことが、高く評価されるようになったのでした。
この文章では、そんな孫策の生涯を書いてみます。
【清代に描かれた孫策の肖像画】
呉郡で生まれる
孫策は175年に揚州の呉郡で誕生しました。
字は伯符といいます。
父・孫堅は下邳県の丞(県令の補佐役)を務めていましたが、やがて黄巾賊を討伐するために出陣することになります。
その際に孫堅は、家族を比較的安全な揚州の州都・寿春に住まわせました。
このために孫策は寿春で育ちましたが、子供のころから俊英だと評価されており、早熟な様子を見せています。
周瑜と知り合い、断金の交わりを結ぶ
十歳をすぎたころには、孫策は揚州の名のある人士と交わりを持っており、やがて同い年の周瑜とも知り合いました。
周瑜もまた、子供のころから英邁な気風をのぞかせていましたが、孫策の評判を聞き、寿春に訪ねてきたのでした。
二人は出会うとすぐに意気投合し、友情を結びます。
その関係は『断金の交わり』と言われるほどに、強固なものだったと言われています。
(断金の交わりとは、友情が金属を断ち切るほどに堅いことをいいます)
やがて孫堅が、都で暴政を行う董卓を打倒するために義兵を挙げると、周瑜の勧めによって、戦乱を逃れるために、周瑜が住む舒に移住しています。
周瑜は広大な屋敷を孫策の一家に譲っており、同じ街に住むようになったことで、両者の友情はさらに深まっていきました。
孫堅が戦死する
孫堅は董卓の討伐戦で活躍し、都の洛陽にまで攻めのぼる功績を立てます。
しかしその後、群雄同士の勢力争いの中で、荊州に攻め込んだ際に、劉表配下の武将・黄祖に討ち取られて死去してしまいます。
これは191年のことで、孫策はまだ十六才でした。
孫策にとっては、武勇で鳴らした頼もしい父が、突如としてこの世を去ってしまったわけで、相当に衝撃的な事件だったでしょう。
やがて孫堅の部下たちが劉表から遺体を引き取って帰還したため、孫策は孫堅を曲阿(揚州の都市)に葬ります。
孫策は葬儀を終えると、長江を渡って江都に移住しました。
そして孫堅が得ていた爵位を弟にゆずり、自らは無位無冠となっています。
孫策は、地位はゆずられるものではなく、自分の力で獲得するものだという、強い意志をもっていたのかもしれません。
呉景の元に身をよせ、兵力を集める
江都の北には徐州がありましたが、徐州刺史(長官)の陶謙は、どういうわけか、孫策をひどく嫌っていました。
このために、孫策の腹心である呂範が徐州を訪れた際に監禁され、暴行を加えられるという事件が起きます。
呂範は部下や食客たちの手によって何とか救出されますが、このために江都にとどまるのは危険な情勢となり、孫策は家族とともに南方に移住します。
母を父が眠る曲阿に住まわせると、孫策は丹陽太守の地位にあった呉景の元に身をよせました。
呉景は孫策の叔父(母の弟)でしたので、孫策はこの親類の力を頼ったのです。
そして腹心の呂範や孫河とともに兵をつのると、数百人を集めることができました。
こうして孫策は、天下の情勢が混沌とする中で、ささやかな旗揚げを果たします。
袁術の傘下に入る
このころの揚州は、各地の太守や群盗などが独立割拠しており、騒然とした状況にありました。
そんな中、州都・寿春は袁術が占拠し、大きな勢力を築いています。
袁術はかつて父・孫堅が従っていた相手でした。
孫堅の死後、その部下だった者たちは、袁術に仕えるようになっています。
このため、孫策は袁術に父が率いていた将兵を返してもらう目的で、袁術の配下になりました。
袁術は父と同じく自分に仕えようとする孫策の行いを「奇特である」としてほめ称えましたが、すぐには孫堅の兵を返してはくれませんでした。
袁術は孫策が自分に仕えたのは、兵力が欲しいからというだけで、心から忠誠を尽くす気はないのではないかと、疑っていたのです。
自力で兵を集めるようにと告げられた孫策が募兵をしていると、その最中に、一揆勢力の襲撃を受けました。
この時は数百人しか兵がいなかったため、孫策は敗北し、部隊が壊滅してしまいます。
そして孫策自身も負傷する事態になったので、さすがに袁術も同情したのか、孫堅に属していた兵の一部である千人を、孫策に返還しました。
こうして苦難はあったものの、孫策はある程度の兵力と、父に仕えていた部将たちを得ることができたのでした。
【次のページに続く▼】