袁術の冷遇と、孫策の独立志向
袁術がどうして孫策に対し、二度も約束を破るようなふるまいをしたのか、その理由は史書には書かれていません。
あるいは、袁術は孫策に大きな才能と野心があることを察し、自分に忠実に尽くすような男ではないのではないか、と疑いを持っていたのかもしれません。
先に孫策が袁術の軍営に、ためらいもなく刺客を送って罪人を処断させましたが、そのふるまいに、孫策の気概の大きさを感じ取り、警戒するようになった可能性もあります。
いずれにしても、孫策が袁術の元でいつまでもぐずぐずとしているような、小さな器の持ち主でなかったのは確かでした。
ですから孫策が袁術に冷遇され、その結果として早くから独立を志向するようになったのは、むしろ幸いだったのだと言えるかも知れません。
劉繇との戦いを望む
このころの揚州は、州都・寿春を袁術が占拠し、南の曲阿に揚州刺史(長官)の劉繇が拠点を構えており、両者は敵対関係になっていました。
劉繇は配下の樊能と張英に、長江の沿岸に拠点を築かせて防衛線を構築し、袁術の南下を防いでいます。
これに対し、袁術は呉景と孫賁に命じ、劉繇を討伐させようとしますが、その防御は堅く、数年にわたって戦線が膠着しました。
すでに触れていますが、呉景は孫策の父・孫堅の義弟です。
そして孫賁は孫堅の甥で、孫策の従兄弟でした。
つまりはどちらも孫策の親族であり、孫策はそれを介入の理由として、出陣しようとします。
孫策は次のように述べて、袁術に出陣の許可を求めました。
「私の家と関係の深い者たちが、揚州の東方で戦っています。どうか叔父たちに私を加勢させ、劉繇を討たさせてください。そうして東方を奪取し、故郷に戻って兵をつのれば、三万の軍勢を得ることができるでしょう。その軍勢を率い、あなたさまが漢の王室を立て直されるのを支援します」
袁術は孫策との約束を破ったことで、孫策から恨まれていることを知っており、果たして出撃させていいものかと考えます。
そして曲阿には劉繇が、会稽には王郎がいて守りを固めているので、千程度の兵しか持たない孫策が加勢したところで、そう簡単に江東を占拠することはできないだろうと判断し、出撃を認めることにしました。
しかしこれは、孫策という若者の力量を、袁術がみくびったのだと言えます。

出陣する
袁術は孫策を派兵すると決めたため、新たに折衝校尉と殄寇将軍の地位を与えました。
しかし将軍とは名ばかりで、孫策の兵力は千のままで、馬は数十頭しかいませんでした。
ですが、孫策が袁術の元を離れ、歴陽にたどり着いた時には、従軍を申し入れる者たちが集まっており、兵力は五、六千を数えるほどになっています。
それほどに、孫策に期待する人々が多かったのでしょう。
また、かつての英傑・孫堅の威望を慕い、再び集結した将兵が多かったのだと思われます。
なお、この時に孫策は周瑜と合流しており、以後は協力しあって、揚州の統一に邁進することになります。
周瑜は本人の能力が優れているだけでなく、親族が三公(最高位の大臣)を輩出するほどの、名家の出身でもありました。
ゆえに孫策が勢力を伸ばすにあたり、周瑜の存在は、大きな意味と影響力を持つことになります。
劉繇の軍勢と戦う
孫策は長江を渡ると、劉繇の軍営である牛渚に攻めこんでこれを陥落させ、大量の食糧と武器を奪取します。
そして劉繇に従っていた、節礼と笮融という武将と対戦することになりました。
孫策はまず笮融を討つことにしてその軍営に攻めこむと、笮融は兵を出撃させて迎え討ってきました。
すると孫策軍はこれを軽々と撃破し、五百もの首級を得て、大勝利を飾ります。
笮融は正面から戦ってはとても孫策軍に勝てないと判断し、軍営の門を閉ざし、まったく出撃しなくなってしまいました。
孫策はこれを見て、矛先を変えて節礼が守る秣陵城に攻めこむと、節礼は怖れをなして城を捨て、逃亡します。
このように、孫策は劉繇軍を相手に連戦連勝を飾り、戦況を有利に進め、数年に渡って停滞していた状況を、短期間で打破しました。
孫策自身も武芸に優れた精強な戦士でしたが、父・孫策が鍛えた配下の武将にも優れた人材が多く、その軍勢は向かうところ敵なし、といった様子でした。
劉繇軍が反撃するも、再び討ち破る
こうして孫策が秣陵城を攻めている間に、その隙をつくべく、劉繇軍の将・樊能が敗残兵をとりまとめ、牛渚を奪還するべく進軍してきます。
樊能は首尾よく牛渚を取り戻しますが、それを聞いた孫策はすぐに牛渚に取って返し、樊能と戦いました。
すると孫策は樊能にも大勝し、一万人の捕虜を得るほどの大戦果をあげています。
これによって樊能の軍勢は壊滅し、劉繇軍はさらなる劣勢に追い込まれたのでした。
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