王連は蜀の政治家で、劉璋や劉備に仕えた人物です。
劉備に攻められた際に降伏せず、劉璋への節義を貫きました。
劉備が蜀を支配するようになると召し出され、地方長官や、特産品である塩や鉄の利益を管理する、重要な役割を任されます。
そして諸葛亮の長史(副官)となり、蜀の統治を補佐しました。
この文章では、そんな王連の生涯を書いています。
南陽に生まれる
王連は字を文儀といい、荊州の南陽郡の出身でした。
生年は不明となっています。
劉璋の時代に蜀に入り、用いられて梓潼の県令になっています。
劉備に降伏せず、義心を尊重される
劉備は劉璋に招かれて蜀に入りましたが、やがて敵対するようになり、葭萌で兵を挙げます。
そして劉備は南方へと進軍し、梓潼に至りますが、王連は城門を閉ざし、決して降伏をしませんでした。
すると劉備はその義心に感じ入り、無理に圧力をかけずに通過をします。
このように、王連は主君への節義を備えた人物だったのでした。
塩や鉄の売買を管理し、蜀の財政を豊かにする
劉備が蜀を平定した後、王連は召し出されて什邡の県令となり、その後、広都県に転任しましたが、それぞれの任地で業績を挙げます。
このことから、やがて司塩校尉に昇進し、塩や鉄の売買によって上がる利益を、全て管理するようになりました。
王連はこの職務を果たして国庫の収入を増やし、蜀の財政を潤沢にするのに貢献します。
蜀は良質な鉄がとれる地域で、こうした特産品があったことが、小国ながらも、魏や呉と渡りあえた要因になっています。
有能な人材を取り立てる
王連は単に収入を増やしただけでなく、有能な者たちを選び出し、自身の属官に任命しました。
この時に王連は同郷の呂乂や杜祺、劉幹といった人材を招聘しましたが、彼らはみな、後に蜀の大官となっています。
王連には、人を見る目もあったのでした。
王連はやがて蜀郡太守・興業将軍に昇進しましたが、塩府の仕事をずっと担当し続けており、塩や鉄の管理者として、よほどに優れた手腕を持っていたようです。
また、多額のお金を扱っても、不正を働くことがなかったのでしょう。
諸葛亮の副官となり、南征に反対する
223年になると、屯騎校尉に任命され、丞相長史(副官)を兼務し、平陽亭候の爵位を与えられました。
丞相とは諸葛亮のことですので、王連は諸葛亮の側近になったのでした。
この頃、劉備の死によって蜀は混乱しており、南方の四郡では反乱が発生していました。
このため、諸葛亮は自ら征伐に向かおうとします。
これに対し、王連は強く反対の意見を述べました。
「南方は不毛の荒地であり、風土病が多い土地柄です。
一国の期待を担う方が危険を犯し、出向くのはよろしくありません」
諸葛亮はしばらく都に留まるが、やがて王連が亡くなる
諸葛亮は諸将の才能が自分に及ばないので、どうしても自ら征伐を行う決意でしたが、王連が重ねて懇願をするので、長い間、都に留まっていました。
そうこうするうちに、やがて王連が亡くなります。
諸葛亮が南征を実施したのは225年のことでしたので、これより少し前に、王連は亡くなったのだと思われます。
子の王山が跡を継ぎ、官位は江陽太守にまで昇りました。
王連評
『季漢輔臣賛』という蜀の臣下を称える文書では、王連は次のように評されています。
「王連は旧主を尊び、節操が堅く、心変わりをしなかった。
劉璋が降伏し、任命を受けた後は、世の規範となるように尽くし、軍需を担当して頼りにされ、よく任務を遂行した」
王連は蜀の建国の初期において、政務と人材の確保の両面において活躍しました。
そして諸葛亮の副官になっていることから、能力・人格ともに評価が高かったことがうかがえます。