向朗は劉備や劉禅に仕え、内政面で活躍した人物です。
やがては諸葛亮の副官を務めるまでに立身しますが、馬謖の逃亡を見逃したために、免官となりました。
しかし、以前の功績によって爵位や特権を与えられ、蜀の政府から尊重を受けます。
晩年は学問に励み、後進の指導にあたったので、蜀の人々から広く敬愛されました。
この文章では、そんな向朗の生涯を書いています。
襄陽に生まれる
向朗は字を巨達といい、荊州の襄陽郡、宜城県の出身でした。
生年は不明となっています。
幼い頃に父を失い、二人の兄に育てられたと、自ら語っています。
向朗は若い頃、人物鑑定に秀でた襄陽の名士・司馬徽に師事しており、徐庶や韓嵩、龐統といった優れた人材たちと、親しく付き合っていました。
こうしたつながりがあったことから、面識があったかは不明ですが、諸葛亮の存在も知っていたと思われます。
劉表と劉備に仕え、地方長官を歴任する
荊州の牧(長官)である劉表は、向朗を起用し、臨沮の県長に任命しました。
そして208年に劉表が亡くなると、向朗は劉備に所属するようになります。
劉備が赤壁の戦いの後、荊州の江南を平定すると、向朗は秭帰・夷道・巫・夷陵の四県の、軍事と民事を統括するようになりました。
そして蜀が平定されると、そちらに異動し、巴西太守となり、また牂牁太守や房陵太守など、郡の長官を歴任します。
具体的な治績についての記録はありませんが、順調に立身を重ねていることから、有能な役人だったのだと考えられます。
諸葛亮の副官となる
やがて劉禅が皇帝に即位すると、歩兵校尉となり、亡くなった王連に代わって、丞相長史(副官)を担当しました。
そして丞相である諸葛亮が南蛮征伐を行うと、向朗は都に残り、丞相府の仕事を取り仕切ります。
このようにして、向朗は中央の政務にも携わるようになりました。
張裔の補佐をする
諸葛亮は北伐を実施するにあたり、側近の張裔に、成都の留守を任せようと考えました。
そこで張裔と親しい蜀郡太守・楊洪に、意見を求めます。
すると楊洪は次のように答えました。
「張裔は天性が明敏で、激務の処理を得意としていますので、その任に堪えるだけの能力をもっています。
しかし公平ではないところがありますので、彼ひとりに任せるのはよろしくないでしょう。
ですので、向朗を留守に残しておくのがよいと思います。
向朗は裏表が少ないので、張裔をその下において目を配らせ、能力を発揮させれば、一挙両得になります」
このような事情で、向朗は諸葛亮から留守を預かることになったのでした。
人からは公平な性格の持ち主だった、と見られていたことがわかります。
馬謖の逃亡を黙認し、処罰される
やがて227年になると、北伐の準備のため、向朗は諸葛亮に随行し、前線基地である漢中におもむきます。
しかしここで、免官されてしまうことになりました。
向朗は普段から、同郷の出身である馬謖と仲が良かったのですが、彼が逃亡した際に、それを黙認しました。
諸葛亮はこのふるまいを恨んで向朗をとがめ、免官にして成都に帰還させています。
この馬謖が逃亡した事件ですが、三国志の他の箇所には一切記録がなく、どこに、どのような事情で逃亡したのかは、不明となっています。
おそらく馬謖は、街亭の戦いで犯した命令違反と敗戦を苦にして、諸葛亮の元から逃れたのだと思われますが、史料からは確定することができません。
仮にそういう事情だったとすると、逃亡したことによって馬謖の罪が重くなり、それが諸葛亮が目をかけてきた馬謖を処刑せざるを得なくなった理由の中に、含まれているのかもしれません。
そう解釈すると、諸葛亮が向朗を恨んだ理由が、わかるように思われます。
【次のページに続く▼】