高位を与えられる
それから数年すると、向朗は光禄勲(宮廷を統括する大臣)に就任し、公務に復帰しました。
そして諸葛亮が亡くなると左将軍になりましたが、過去の功績を取り上げられ、顕明亭候の爵土も与えられています。
さらには特進の位(特別待遇)も加えられるなどしており、身分がどんどんと高まっていきました。
向朗は、多少の問題行動はあったものの、それを打ち消すほどに、官僚としては優れた事跡を残していたようです。
勅命を伝える使者の役を務める
この時期の向朗は、蜀の皇族への使者を務めており、書簡に何度か名前が登場します。
劉禅の妃である張皇后が、貴人(皇后に次ぐ地位)から皇后に昇格となる際に、その身分を証明する璽(印章)を届けに行きました。
また、劉禅が子の劉璿を皇太子にした際にも、印綬を渡す役目を務めています。
このことから、向朗が当時の蜀において、尊重される立場にあったことがうかがえます。
学問に励む
向朗は若い頃、広く学問を修めましたが、学者として普段の品行を整えることはせず、実務の能力によって、高い評判を得ました。
長史を免官となってからは表舞台に立つことが少なくなり、以後は20年近くも平穏に、何事もなく暮らします。
そして、改めて典籍の研究に専念し、倦むことがありませんでした。
八十歳を超えても、なお手ずから書物の内容を詳しく調べ、誤謬を訂正しています。
そして書物を収集することにかけては、当代一の人物でした。
蜀の人々から敬愛される
向朗は研究に励むだけでなく、門戸を開放して賓客を接待し、後進を教え導きます。
そしてただ古義を説くだけで、当代の時事問題には言及しなかったので、高く評価を受けました。
そのようにして、角を立てないように気を配っていたのでしょう。
この姿勢によって上は政治家から、下は子供に至るまで、みなが向朗を敬愛しました。
そのような幸福な老年期を過ごした後、向朗はやがて、247年に亡くなっています。
向朗の遺言
向朗は遺言をし、子供たちに訓戒を与えました。
「『春秋左氏伝』(史書)には、『戦いの勝利は兵士の和にかかっており、人数の多さによるものではない』と書かれている。
この言葉は、天地が和すれば万物が生じ、君臣が和すれば国家が平和となり、九族(九代にわたる一族)が和すれば、積極的には求めるものが手に入り、消極的には安定が得られる、という意味である。
だからこそ聖人は和を守り、それによって存続し、それによって滅亡するのである。
わしは楚国(荊州)の賤しい者に過ぎず、しかも幼い頃に父を失い、二人の兄によって育てられ、禄利によって性行を堕落させないようにとしつけられた。
現在はただ、貧しいだけである。
貧しさは人間にとって悩みではない。
ただ和を尊重せよ。
おまえたち、努力をするのだぞ」
子の向条が後を継ぎ、景耀年間(258-263年)には、御史中丞(地方長官の監督役)となっています。
向条は父と同じく博学多識で、晋にも仕え、江陽太守・南中軍司馬に就任しました。
向朗評
三国志の著者・陳寿は向朗を次のように、短く評しています。
「向朗は学を好んで倦むことなく、記録に値する人物である」
向朗は馬謖の逃亡を見逃したことによって免官となりましたが、それは同郷の親しい人間が相手のことでしたので、それほど深く咎められることはなかったようです。
内政面において、初期から活躍し続けており、蜀を支えた人材のひとりだったのだと言えます。
老年になってから時事を論じなかったところから、賢明な人柄だったことがうかがえ、遺言からも、学問によって人格が練られていたことがわかります。