秦宓は蜀に仕えた学者です。
弁論と文章に優れており、隠者の生活を好んでいたものの、やがて招聘を受けて仕官しました。
そして諸葛亮から側近に抜擢され、呉の使者と当意即妙のやりとりをして、蜀の学者の能力の高さを示しています。
この文章では、そんな秦宓について書いています。
緜竹に生まれる
秦宓は字を子勅といい、益州の広漢郡、緜竹県の出身でした。
若い頃から才能と学問があり、州や郡から招聘を受けましたが、いつも病だと称して出仕しませんでした。
秦宓は出世や俸禄といった、現世的な価値を重視しない人柄だったようです。
任安を推薦する
一方において秦宓は、任安という優れた儒学者を、州牧(長官)の劉焉に推薦しています。
「その昔、百里奚と蹇叔(秦に仕えた学者たち)は老人であったにも関わらず、国策を定めました。
甘羅や范子奇(戦国時代の人)は年少だったにもかかわらず、功業を立てました。
だからこそ『尚書』では白髪をほめ、『易』では若い顔淵(孔子の高弟)が称賛されています。
人士を選び、有能な者を起用するには、長幼にこだわるべきでないことは、明らかです。
以前から、国内で推挙される人物は、英傑が多いのですが、老人は置き去りにされています。
これに関しては、衆論は一致せず、賛否が半ばしています。
これは平和な時代のやり方であり、いまの乱世に適したやり方ではありません。
危急を救い、混乱を鎮め、我が身を整えて人心を安んじようとするのなら、卓越した才能を抱き、倫理を超え、時勢と趣を異なるものにし、隣国を震え上がらせ、四方をゆさぶり、上は天の心にかない、下は民の意にそうようにしなければなりません。
天と人が和合し、内面を顧みてやましいところがないのであれば、凶乱に遭遇しようとも、何を憂い、恐れることがあるでしょう。
昔、楚の葉公が龍の絵を好んだため、神龍が彼の元に降りてきました。
偽物を愛好してさえ、天に思いが届くのです。
ましてや、真物だったらどうでしょう。
いま、処士の任安は、仁義とまっすぐな道によって、その名声ははるかな遠方にまで知れわたっています。
任用をなされば、州民のすべてが心服するでしょう。
昔、殷の湯王が伊尹を登用すると、不仁の者は遠ざかりました。
漢の何武が襲勝と襲舎を朝廷に推薦したところ、二人はともに竹帛(歴史書)に名を残しました。
それゆえに、尋常の高さに心を奪われ、万仞の崇高さを無視し、目の前の装飾を楽しみ、天下の誉れを忘れることを、昔の人は慎みました。
(「仞」は高さの単位で、1仞は約184cmです。万仞は「とてつもない高さ」を意味します)
初めは石に鑿を入れて玉を求め、貝を開けて真珠を得ようと望んでおられたでしょうが、いま隋候の珠、和氏の璧が、そこで太陽のように光り輝いています。
何を迷われることがありましょう。
真昼に燭台を灯さないのは、太陽にありあまるほどの光があるからです。
ただ、私の心が落ち着かないので、愚かな思いをまとまりもないままに、申し上げています」
任安は秦宓と同じく広漢の人で、若い頃に都に上り、学問を極め尽くした秀才でした。
そして州や朝廷から招聘を受けたものの応じず、故郷で後進の指導にあたっています。
このことから、秦宓と似た人物だったと言えます。
この秦宓の申し出を受け、劉焉もまた「任安は国家の大宝です」として朝廷に推挙しましたが、すでに乱世となっており、交通が途絶えていたために、招聘の命が届くことはありませんでした。
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