彭羕 劉備に抜擢されるも、失言によって処刑された軍師

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彭羕ほうようは劉備に仕え、抜擢を受けた人物です。

しょうの悪口を言って懲役刑に処せられましたが、劉備が益州にやってくると、会いに行って高く評価されました。

そして益州の平定に貢献をして重用されますが、思い上がって傲慢な態度を取ったので、やがて左遷されます。

それを恨んで劉備を「老いぼれ」呼ばわりし、馬超に謀反をそそのかすような発言をしたので、処刑されてしまいました。

この文章では、そんな彭羕について書いています。

広漢に生まれる

彭羕はあざな永年えいねんといい、益州の広漢郡の出身でした。

身長は八尺(184cm)もあり、容貌ははなはだ魁偉だったといいます。

傲慢で、他人を軽く扱う性格でした。

しかし同郡の秦密しんみつのことだけは尊敬していたので、太守の許靖きょせいに取り立てるよう、推薦をしています。

彭羕の推薦文

「その昔、いんの高宗は傅説ふせつを夢に見て、周の文王は呂尚りょしょうを求めました。
(いずれも、王が優れた臣下を得た故事について触れています)

そして前漢の高祖は、酈食其れきいきを平民から取り立てています。

これこそが、帝王が大業を興して王統を後世に伝え、その功績を輝かせたゆえんです。

いま、明府とのは古からの王道を極められ、神霊のごとき英知をお持ちになり、公劉(古代の王)の徳義を身に備え、後の世に慕われるほどの恩恵を施しておいでです。

その結果、清びょうでそれが称えられ、評価が高まっておられます。

しかしながら、羽翼となる臣下はまだ充分ではありません。

伏して思いますに、緜竹めんちく県の処士・秦密は仲山甫ちゅうざんほのような徳を備え、雋生しゅんせいのような正しい行いをして世から隠れ、石を枕にし、流れにくちすすぐ生活をしながら、粗末な衣服を身にまとい、吟詠をしています。

そして仁義の道を歩み、自由な境遇に安んじ、節義のある行いをし、気概を高く持ち、真実を守って、これを損なうことがありません。

古代の隠士ですら、彼ほどのものではなかったでしょう。

もしも明府がこの人物を招聘されたならば、必ず忠義に厚く、道義にかなった人物だとして評判を立てられるでしょう。

そして功業を盛んにし、厚く利益をもたらし、足跡を残して勲功を立てられるでしょう。

その後、王府に功名を記され、来世にまで名声を残すことになるでしょう。

すばらしいことではありませんか」

彭羕はこのように、人を多いに褒め、世に出そうとすることもあったのでした。

劉璋に髪をそられてしまう

やがて彭羕は益州に仕官しましたが、その地位は書佐(書記官)であるに過ぎませんでした。

そしてしばらくすると、州牧(長官)である劉璋の悪口を言ったことを、告げ口されてしまいます。

すると劉璋は彭羕を髠鉗こんけんという、髪を剃って首にかせをつける刑に処し、労役囚にしました。

龐統をたずねる

やがて劉備が劉璋の要請を受けて蜀に入り、北方の葭萌かぼうに滞在するようになります。

すると彭羕は劉備に意見を述べ、起用してもらおうと考えました。

そして劉備の腹心である龐統ほうとうを訪ねます。

龐統は彭羕とは面識がなかった上、ちょうど来客を迎えていました。

しかし彭羕は遠慮せず、龐統の寝台に上がって寝ころがります。

そして龐統に向かい、「客が帰った後で、ゆっくり話をしよう」と言いました。

なんとも失礼な態度でしたが、龐統は度量があったのか、彭羕を追い出したりはしませんでした。

【次のページに続く▼】