劉表は後漢の統治力が衰えた時代に荊州の刺史(長官)となり、支配権を確立した人物です。
そして孫堅の侵攻を受けるものの、孫堅を討ち取って撃退に成功するなど、守勢に強いところを見せています。
また、曹操に敗れて逃れてきた劉備を受け入れて厚遇するなど、三国志の成立に影響を及ぼす動きを取りました。
この文章では、そんな劉表の生涯を書いてみます。
【劉表の肖像画】
若い頃から有名だった
劉表は142年に兗州の山陽郡で誕生しました。
劉姓であることからわかる通り、漢王朝の皇帝の血を引いています。
正確には、前漢の景帝の第四子・劉余の子孫でした。
劉表は若い頃から有名で、「八俊」という異名で呼ばれています。
八俊とは、山陽郡における優れた八人の若者のことで、劉表はそのうちの一人に数えられていたのでした。
劉表は大学で儒教を修め、理解を深めることで名声を得ています。
17才の時に、倹約が過ぎる南陽の太守を諫めた、という逸話があり、早くから論客としての活動を行っていたようです。
また、身長が八尺(184cm)もあり、容姿がたいへんに立派だったことでも知られています。
官職を追放される
しかし劉表の前半生は、若い頃の名声に比べると順風満帆とは行きませんでした。
この頃の後漢では、皇帝の側近くに使える宦官たちが政治を壟断し、官僚たちとの軋轢が強まっていました。
劉表は宦官たちと敵対する清流派という政治派閥に属しますが、抗争に敗れて官職を失います。
これを「党錮の禁」といいます。
そして時の皇帝である霊帝に追放された官人を匿ったことから、自身も追われる身となってしまいます。
これが176年のことで、劉表は30代の日々を逃亡者として過ごすことになりました。
黄巾の乱によって復帰する
やがて184年に「黄巾の乱」が発生すると、清流派への追求がやみ、劉表は大将軍である何進に招かれ、北軍中候という地位を得ています。
やがて189年に霊帝が崩御すると、劉表は荊州刺史に任命され、一州を統治する地位につきました。
劉表はこの時47才で、この年にしてようやく顕職につくことができました。
【当時の行政区分 中央の「荊」が荊州の位置】
引用元:http://www.suginami-s.net/game/sangokuonsitu/jiten/map.html
荊州の混乱
刺史として赴任したとは言え、この頃の後漢は統治力が著しく低下し、各地の太守は刺史の命令に服さず、勝手気ままにふるまっており、情勢は混沌としていました。
具体的には、袁術が混乱に乗じて南陽郡(荊州北部の豊かな地域)を横領し、長沙郡の太守・蘇代は集めた軍勢を頼みに独立割拠するなどしています。
そして江南(荊州南部)では宗賊という一揆が勃発しており、荊州は乱れきっていたのでした。
劉表はこうした多難な状況下で、自身の力だけでは荊州を治められないと悟り、現地の有力者に相談に行きました。
劉表はひとり馬で宜城に乗り込み、蒯良・蒯越・蔡瑁といった面々と会談をします。
劉表は彼らに「宗賊の勢いが盛んな上、民衆は言うことをきかず、袁術は混乱を利用して南陽を横領している。このままではすぐにも災難が降りかかってくるだろう。軍勢を招集したいが、集まらないのではないかと心配だ。どうしたらよいだろう」と告げました。
蒯良と蒯越の返答
この劉表の相談に対し、蒯良は「民衆が従わないのは仁愛が不足しているからで、治まらないのは信義が不足しているからです。仁義の道が実践されれば、民衆は水が上から下に流れるがごとく、自然と身を寄せてくるでしょう」と答えました。
劉表が蒯越を振り返って同じくたずねると、蒯越は違った答えを返しました。
「平和な時代の政治は仁愛と道義を第一とし、混乱の時代の政治は時宜に適した策謀を第一とするものです」と述べ、蒯良とは異なった意見を主張します。
そして「戦争は兵力の多さにかかっているのではなく、人物を配下に治めるかどうかにかかっています」と続け、具体的な策を示しました。
宗賊の指導者は貪欲で乱暴な者が多いので、人望を得ていない。
彼らの部下の中には蒯越が面倒を見ていた者が大勢いるので、利をもって誘えば手下を連れてやって来るだろう。
劉表は道に外れたものは処刑し、その他の者をいたわり用いれば、住民たちは劉表を信頼し、自然と徳を慕って集まるようになる。
そうして南は江陵を、北は襄陽を守れば、やがて荊州の八郡は治まり、袁術がやって来たとしても、手も足もでなくなるだろう。
というのが蒯越が示した策でした。
劉表の評価と実践
二人の意見を聞いた劉表は、「蒯良は百世の利を考え、仁義を尊ぶ意見だ。そして蒯越の意見は時宜に適した策を述べた、優れたはかりごとである」と、それぞれを称賛します。
そしてこの時は混乱期だったので、蒯越の意見を採用することにし、その策を実行に移しました。
蒯越に命じて人を送り、宗賊に誘いをかけたところ、55人の頭が兵を引き連れて劉表の元にやってきます。
劉表は彼らを査定し、非道の行いがあって憎まれている者は処刑し、そうでないものは生かしておき、彼らが連れてきた軍兵を預けました。
この措置によって宗賊たちは劉表に従うようになり、兵力が大幅に増強されます。
一方、江夏を支配する張虎と陳生だけは呼びかけに応じなかったので、蒯越を使者として送り、説得して帰順させています。
こうして劉表は蒯越の働きによって江南を平定し、荊州に確かな基盤を築いたのでした。
ここまでの劉表は賢者に意見を求め、適切な策を見分けて用いることができる、英雄の資質を持った人物だったと言えるでしょう。
【次のページに続く▼】