劉備が身を寄せる
やがて袁紹と曹操の決戦は、韓嵩が予測した通り、曹操の勝利に終わります。
すると袁紹に味方していた劉備が、曹操の追撃を逃れ、劉表の元に身を寄せてきました。
劉表は歴戦の武将である劉備を厚くもてなすものの、心から信用することはありませんでした。
劉備を用いて曹操と対決することもせず、かといって袁紹を破って強大化した曹操に臣従するでもなく、中途半端な態度をとり続けています。
このために劉備は積極的に軍事活動を行うことができず、足に贅肉がついてしまったことを嘆く「髀肉の嘆」という逸話をのこすことになりました。
劉備の献策を受け入れず
曹操は袁氏を打倒した後、中国北東の辺境である遼東にまで進軍し、都である許から遠く離れていた時期がありました。
劉備はその機をとらえ、曹操の留守を狙って許に攻め込み、都を制圧するようにと劉表に進言します。
しかし劉表はこの時も決断できず、やがて曹操は許に帰還してしまいました。
すると劉表は劉備に対し、「君の言葉を採用しなかったために、この一大好機を逃してしまった」と後悔を述べました。
劉備は「現在、天下は分裂しており、毎日のように戦いが続いています。ですのでこれが最後の機会というわけではありません。もしもこれから訪れる機会に応じられるならば、残念がる必要はないでしょう」と答えました。
しかし曹操と袁紹が争っていた好機に動かず、曹操不在の機会も逃したのですから、劉表はいくら機会が訪れても、それをつかむことはできなかったでしょう。
手に入れたものを失うリスクを冒しても、さらに勢力を拡大していこうとする人間でなければ乱世は統一できませんが、劉表はそのような勇気を備えておらず、一州を支配するのが限界だったのだと言えます。
つまるところ、乱世には向かない性格だったのでしょう。
後継者争い
こうして何度も好機を逃し続けるうちに、とうとう劉表には死期が迫って来ます。
劉表が体調を崩しがちになると、後継者争いが発生し、長男の劉琦と次男の劉琮が仇敵の間柄になりました。
劉琮は次男でしたが、荊州の実力者である蔡瑁と張允に後押しされていました。
その上、劉表とその妻の蔡氏もまた劉琮をかわいがったため、劉琮が後継者として優位な立場につきます。
儒教の思想では、年長者である長男を尊重すべきなのですが、このあたりでも劉表は、儒者にあるまじき行動を取っていたことになります。
結局のところ、劉表は儒者として名を売っていたものの、その思想を心から信奉していたわけではなかったのでしょう。
このあたりも中途半端な人物だったのだと言えます。
こうして高まっていく劉琮の勢力に押された劉琦は、身の危険を感じるようになり、劉備に仕えていた諸葛亮に相談します。
すると諸葛亮は、襄陽を離れて江夏の太守になるようにと助言しました。
劉琦は助言に従い、太守の座が空いていた江夏に赴任し、危機から逃れています。
そして後に劉備に協力し、その活動を支援することになるのでした。
劉表の死
こうして劉琦が襄陽を去ったことで、劉琮が後継者に定まりました。
しかし江夏は劉琦の支配下にあり、劉表の勢力は分裂したのだと言えます。
これも劉表の不適切な態度がもたらした結果でした。
やがて208年になると、曹操が荊州を制圧するために軍を発しましたが、これが到着する前に劉表は病死しています。
享年は67でした。
こうして劉表は、ついに曹操や袁紹といった強大な勢力とは戦わないまま、その生涯を閉じています。
このため、荊州を支配して大きな勢力を形勢したものの、その存在は三国志の中では地味なものとなっています。
その気になれば曹操を脅かす機会はいくらでもあったのですが、ついに決断ができないままでした。
しかしこの劉表の優柔不断さが、かえって後継者である劉琮には幸いすることになります。
劉琮の降伏と厚遇
劉琮は荊州の支配者の地位を引き継ぐと、父と同じく中立を保てないものかと模索しました。
しかし傅巽という家臣が劉琮を諫めます。
「ものの順逆には道理が存在し、強弱には決まった状態が存在します。臣下でありながら主君に逆らうのは、道理に逆らうことです。新興の楚国(荊州)をもって国家(後漢)に抵抗しようとしても、成功するものではありません。また、劉備を曹操に敵対させても、対抗しきれるものではありません」と情勢を劉琮に説明します。
「この三点が全て劣りながら、皇帝の鋭鋒に反抗すれば、必然的に滅亡の道につながります。劉琮様は、ご自身と劉備を比べてどう思われますか?」と傅巽は劉琮にたずねました。
すると劉琮は「私の方が及ばないだろう」と正直に答えました。
「その劉備でも曹操には対抗できないのです。であれば、劉琮様が荊州で独立を保つのは不可能でしょう。もしも劉備が曹操に対抗できるのであれば、劉備は劉琮様の下につきはしません。どうか迷われませぬように」と傅巽が述べると、劉琮はその言葉を受け入れ、曹操に降伏することを決断します。
劉琮は劉備に劣り、その劉備は曹操に劣るのですから、劉琮が曹操に対抗するのは不可能であり、ならば降伏した方がよいと、現実的に判断を下したのでした。
これによって劉備は襄陽に居場所がなくなり、夏口に逃亡しています。
劉琮らが高位高官に取り立てられる
曹操は劉琮の降伏の申し出を喜び、その臣下たちも含めて厚遇します。
既に触れている通り、荊州は肥沃で広大な土地でしたので、劉琮はその気になれば、曹操に攻め込まれても、一部の土地を確保して、なお抵抗し続けることも可能でした。
しかし劉琮は支配が及ぶ土地をすべてを曹操に差し出したため、曹操はやすやすと勢力を拡大することができたのです。
そしてこれまでに劉表は曹操を支援こそしなかったものの、攻め込んで苦しめることもなかったので、恨みを買っておらず、そのために子や臣下たちが厚遇されたのでした。
このあたりは、劉表が逡巡して動かなかったことが幸いしたのだと言えます。
劉琮は曹操に青州刺史に任じられ、列侯に取り立てられました。
その他にも、蒯越ら15人の重臣が候の地位を与えられています。
そして蒯越が光禄勲、韓嵩が大鴻廬、鄧義が侍中になるなど、高位高官に登るものが多数いました。
劉表は天下を望むほどの人物ではなかったものの、結果的には子どもや臣下たちに、よい贈り物を遺したのだと言えるでしょう。
なお、劉表亡き後の荊州は北を曹操が、南東を孫権が、南西を劉備が抑え、三勢力が覇を競う係争の地へと変貌してゆくことになります。
劉表評
三国志の著者である陳寿は、劉表と袁紹を並べて評しています。
「袁紹と劉表はともに威厳に満ちた風貌と度量見識を備えており、当時において評判の高い人物だった。劉表は漢江の南を支配し、袁紹は黄河の北に勢力をふるった。しかしどちらも寛大なのは表向きだけで、内心では猜疑心が強く、謀略を好むが決断力が乏しかった。有能な人材がいても用いることができず、よい意見を耳にしても聞き入れず、嫡子を退けて庶子を後継者に立てた。後継者の時代になってつまづき苦しみ、社稷が転覆したもの不幸とは言えない」と、厳しい評価を降しています。
陳寿が言うとおり、劉表も袁紹も、勢力を築くまでは度量があるところを見せていましたが、それ以降は疑心暗鬼に陥り、決断力を欠くようになりました。
そして勢力では劣っていた曹操に逆転され、その支配地域を吸収されることになっています。
また、子どもたちの間で後継者争いを引き起こさせ、死後に勢力を分裂させてしまい、曹操につけこまれた点も共通しています。
しかし袁紹は子どもたちが滅ぼされてしまったのに対し、劉表は子の劉琮が取り立てられた点が異なっています。
このあたりは家臣たちが冷静に状況を判断し、劉琮を諫めることができたのが大きく、内部抗争に明け暮れた袁紹の家臣たちとは質が違っていたのだと言えるでしょう。
劉琮は荊州の主という地位は失ったものの、ほどほどな地位におさまることには成功しており、劉表の遺した人材と領地は、それなりに活かされたのだと思われます。


