黄皓は劉禅が成長するに従い、寵愛されるようになった宦官です。
宦官は去勢をした上で、皇族に仕える使用人で、身の周りの世話をするのがその仕事でした。
身近なところで接するため、皇族に親しまれて信頼され、やがては権力を握った者たちが、中国の歴史上には、しばしば現れています。
黄皓もそのような宦官のうちの一人で、口先がうまく、その悪賢さによって、劉禅から大変に気に入られるようになりました。
董允によって頭を抑えられる
しかし劉禅が若いうちは、侍中(皇帝顧問官)の董允がいつも劉禅を匡正し、黄皓をとがめ、頭を押さえつけていました。
董允は公正かつ清廉な性格で、諸葛亮によって劉禅の側近に任命された人物です。
言わば、若き皇帝のお目付役であり、彼が健在のうちは、蜀の宮中が乱れることはありませんでした。
黄皓は董允を恐れ、この時期には、非道なふるまいをする余地がなかったのです。
董允がこの世を去るまで、黄皓の地位は黄門丞(宦官を束ねる者の副官)であるに過ぎず、皇帝に気に入られても、権力を握ることはありませんでした。
陳祇が黄皓と結託する
しかし246年に董允が亡くなると、代わって陳祇が侍中となります。
この陳祇は、董允とは逆の態度を取り、黄皓と結託し、政務に関われるようにしてしまいました。
その上、たびたび黄皓と陳祇は、董允の悪口を劉禅に吹き込んだので、劉禅は自分が軽んじられていたのだと思い込み、やがて董允を恨むようになります。
そして258年に陳祇が亡くなると、黄皓は中常侍(皇帝の顧問)・奉車都尉(皇帝の車の管理官)に昇進します。
これによって、黄皓は宮殿の内でも外でも、常に劉禅の側に控えつつ、政治的な進言ができる権限を手に入れました。
この頃には、劉禅は黄皓を信頼して言いなりになっており、蜀の国政を、黄皓が思うままに操るようになります。
蜀の宮中が乱れていく
黄皓は陰険かつ邪悪な性格で、その上、政治や軍事のことを何もわかっていない人間でしたので、彼が権力を握ったことで、蜀の国勢は衰えていきます。
具体的には、能力や人格によって人をはからず、自分におもねる人間は重用し、そうでない人間は左遷するようなふるまいをしました。
この頃には、蜀の宮中では諸葛亮の子である諸葛瞻や董厥、樊建といった者たちが重んじられていましたが、彼らはみな黄皓を非難せず、その悪行を咎めませんでした。
董厥や樊建は、それなりに能力のある者たちでしたが、黄皓を排除しようとするほどの気概は備えていなかったのです。
こうして蜀の衰えは、止まらなくなっていきました。
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