諸葛尚の嘆き
緜竹での戦いには、諸葛瞻の長男(諸葛亮の孫)である諸葛尚も加わっていました。
彼は「父も子も、国家の重恩を担っているのに、早く黄皓を斬らなかったがために、敗北を招いてしまった。生きていても、何の役に立とうか」と言って、魏軍に突撃しました。
そして父と同様に、戦死しています。
諸葛瞻は諸葛亮の子として期待され、若くして蜀の高官の地位に昇っていました。
しかし、黄皓を排除せず、妥協してやり過ごしたために、蜀が傾くのを止めることができなかったのです。
諸葛尚の最後の言葉からも、黄皓がいかに蜀にとって悪しき存在だったかが、現されています。
鄧艾が蜀を滅亡させる
諸葛瞻は首都の防衛部隊を率いていましたが、彼が戦死してしまったことで、軍勢にはまとまりがなくなり、みな逃げ散ってしまいました。
このため、鄧艾は長駆して成都に迫りましたが、もはや蜀には対抗する手段がなくなります。
残った者たちが対応を協議しましたが、呉に逃亡する案や、南に逃げる案などが出ました。
しかし結局は、魏に降伏することに決定し、鄧艾にそれを申し入れます。
鄧艾はこれを喜んで受け入れ、劉禅は鄧艾の陣営を訪ねて降伏し、これによって蜀は滅亡しました。
鄧艾が黄皓を処刑しようとするも、賄賂によって逃れる
鄧艾は成都を占拠すると、黄皓の邪悪さや、陰険なふるまいを知り、逮捕して処刑しようとします。
しかし黄皓は鄧艾の側近に手厚く賄賂を贈ったために、これを免れてしまいました。
他に記録はなく、その後、黄皓がどうなったかは不明です。
『三国志演義』では、魏の宰相である司馬昭によって引きずり出され、処刑されたことになっていますが、これは創作のようです。
黄皓と蜀の滅亡
黄皓については、呉でも「宦官が政治を壟断し、蜀の朝廷では正しい意見が唱えられなくなっている」といったことが語られており、悪評が広く伝わっていたようです。
ですので、黄皓が蜀を滅亡させた原因になったのは間違いがないのですが、そもそも黄皓を気に入り、与えるべきでない権力を与えたのは、君主である劉禅の責任でした。
劉禅は人物のよしあしを見分ける目を持っておらず、諸葛亮のような優れた人物に支えられている時は問題を起こさなかったのですが、彼がいなくなると、じわじわと蜀の国政を乱し、ついには滅ぼしてしまっています。
後漢は桓帝・霊帝が宦官を寵愛したことで国を傾かせましたが、後漢を受け継いだ蜀漢もまた、同じ原因で衰退し、滅んでしまったのでした。
諸葛亮はこのことを取り上げ、劉禅に告げていたのですが、劉禅はきちんとこの問題に向き合い、考えて行動することはなかったようです。
それにしても、黄皓が賄賂を贈って生き延びてしまったところに、史実というものの理不尽さが、にじみ出ているように思えます。