孫堅は後漢の末期に、各地の反乱討伐などで活躍した武将です。
彼の家には地位も財産もありませんでしたが、優れた軍事の才能によって頭角を現し、順調に出世を重ねていきます。
そして将軍の地位を得て董卓をおびやかすほどの存在になりましたが、やがて劉表との戦いの際に、あえなく戦死してしまいました。
しかし孫堅の死後、子の孫策・孫権がさらに勢力を伸ばしたことから、呉の始祖としてまつられることになります。
この文章では、そんな孫堅の生涯を書いてみます。
【孫堅の肖像画】
呉郡に生まれる
孫堅は字を文台といい、中国の南東にある呉郡で誕生しました。
155年か、156年の生まれだったと言われています。
孫堅の家は代々、呉郡で役人として働いていましたが、財産や名声を備えていたわけではなく、ごく平凡な家柄だったようです。
孫堅はそのような境遇に生まれましたが、17才の時に目立った功績を立て、それをきっかけにして世に出ることになりました。
(孫堅は『孫子の兵法書』で知られる孫子の子孫だという説もありますが、確たる証拠はなく、真偽は不明となっています)
海賊退治で名を挙げる
17才の時、孫堅は父と一緒に船に乗り、銭唐という場所に出かけようとしていました。
その途中で、海賊が岸辺に上陸し、略奪品を分配しているところに遭遇します。
旅人たちは海賊を怖れてその場にとどまり、船もまた近づこうとはしませんでした。
孫堅は海賊たちの様子を観察すると、父親に「あの海賊どもを退治できます。私にやらせてください」と言います。
父親は「お前に手出しできる相手ではない」と言って反対しますが、孫堅はそれに構わず、刀を手にして岸に上がりました。
そして孫堅は、手を振るって東西に合図を出すような仕草をします。
それは兵士たちを指揮し、海賊を囲んで退路を断とうとしているように見えたので、海賊たちは略奪品を放り出し、あわてて逃げ出しました。
孫堅はそれを追いかけ、海賊のうちの一人を斬って倒し、首を取って無事に戻ってきます。
こうして孫堅は、ひとりの兵士も連れずに、計略を用いて海賊から略奪品を取り戻すことに成功したのでした。
この手柄によって孫堅の名が知られるようになり、役所は彼を召喚し、仮の尉(警察・軍事を司る職)に任命しています。
このように、孫堅は若くして優れた才能を世に示し、出世の糸口をつかんだのでした。
妖賊を討伐する
こうして孫堅が官位を得たころ、会稽の妖賊・許昌が反乱を起こし、自ら陽明皇帝を名のる事件が発生します。
妖賊とは、宗教結社を基盤とした反乱勢力のことを言います。
その勢いは強く、許昌の元にはたちまち数万の人々が集まりました。
この事態を受け、孫堅は呉郡の司馬(武官)に任命され、鎮圧を命じられます。
すると孫堅は、義勇兵を募って千人ほどの兵力を手に入れました。
そして他郡の官兵と協力して反乱軍を攻撃し、みごと鎮圧に成功しています。
数県の丞となる
こうして際だった功績を立てた孫堅を、郡の刺史(長官)である臧旻が朝廷に推挙すると、孫堅は塩瀆県の丞に任命されました。
丞は県令を補佐する役目で、孫堅は行政の仕事も担当するようになったのでした。
孫堅はついで盱貽県と下邳県の丞も歴任しています。
孫堅は規律正しく、公正さを重視する人柄でしたので、どこの県でも評判がよく、役人も民も彼に親しみました。
孫堅は武に秀でていたのみならず、統治者としての力量も備えていたのです。
そうして地位が上がった孫堅の元には、郷里の知人や、一旗あげることをもくろむ若者たちなど数百人が集まり、これが孫堅の勢力の基盤となります。
こういった過程で、後に呉を支えることになる朱治や程普といった人材が、孫堅に仕えるようになります。
孫堅は集まってきた者たちを手厚く待遇し、身内のように扱ったので、結束が強固になっていきました。
黄巾の乱が発生する
やがて184年の3月になると、黄巾賊が数十万の人々を集め、後漢の各地で一斉に反乱を起こしました。
黄巾賊は張角を首領とし、太平道という新興宗教を媒介として結束した集団です。
つまりは以前に起きた許昌の反乱が、もっと大規模になったようなものでした。
後漢の朝廷は車騎将軍の皇甫嵩と、中郎将の朱儁を派遣して、黄巾賊を討伐させます。
この際に朱儁は上表し、孫堅を自分の配下の佐軍司馬に任命したいと願い出ました。
これが認められ、孫堅は黄巾賊の討伐に参加することになります。
朱儁は孫堅と同じ揚州の出身でしたので、その優れた手腕を知っており、孫堅を自分の手元で用いたいと希望したのでした。
【次のページに続く▼】