甘夫人(昭烈皇后) 劉備の側室で、劉禅の母となった女性

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甘夫人かんふじんは、劉備の側室だった女性です。

州・はい国の出身で、劉備が豫州を統治し、小沛しょうはいを拠点としていた頃に側室になりました。

これは劉備が徐州や豫州を舞台として、曹操や呂布と抗争をしていた時期にあたります。

劉備はこの頃、各地で戦ってしばしば敗北し、正室を何度か失っています。

このため、甘夫人が奥向きのことを取り仕切るようになりました。

しかしあくまで正室ではなく、側室のままだったようです。

これは、実家の力が弱かったからなのだと推測されます。

甘夫人
【甘夫人の肖像画】

劉禅を生むも、長坂の戦いに遭遇する

甘夫人は劉備に従ってけい州におもむき、やがて207年に劉禅を生みます。

しかし翌208年になると、曹操が荊州に侵攻してきたので、甘夫人と劉禅は、命の危機にさらされることになりました。

劉備はこの時、荊州を支配する劉そうが曹操に降伏してしまったので、やむなく南方に撤退することにします。

すると荊州の人士10万人が同行することを望んだので、劉備はこれを受け入れたのですが、このために行軍速度が遅くなりました。

そして劉備を追撃するために急行軍をしてきた曹操に、長坂で追いつかれてしまいます。

長坂の戦い

非武装の人間を多く連れていたため、劉備はまともに抗戦することができず、側近だけを連れて逃走を開始しました。

この時、劉備は趙雲に、甘夫人と劉禅の保護を頼みます。

趙雲はこの役目を果たし、乱軍の中で二人を救助し、劉禅をその身に抱いて守り切りました。

こうして母子は危ういところを、かろうじて逃れています。

甘夫人地図

翌年に死去する

しかし甘夫人は、やがて荊州の南郡で亡くなってしまいました。

それからしばらく時が過ぎ、222年になると、甘夫人は皇思こうし夫人とおくりなされます。

この頃には、劉備が蜀の皇帝になり、子の劉禅は皇太子になっていましたので、生母である甘夫人の地位が高まり、このために諡をされたのでした。

そして劉備は甘夫人の墓が遠く荊州にあることを気に病み、特に使者を遣わし、柩を蜀に移送させることにします。

翌223年になると、劉備は永安えいあんで死去したのですが、柩はまだ到着しておらず、生きて亡き妻を迎えることはできませんでした。

昭烈皇后と諡され、劉備と合葬される

やがて柩が到着すると、丞相の諸葛亮が、皇帝となった劉禅に上奏をします。

「皇思夫人は品行に優れ、仁徳を修められ、善良で、その身を慎まれた方でした。

大行皇帝(劉備)が昔、上将の位におられた時、妃としてつきそわれ、聖なる御身(劉禅)を育まれましたが、天命がとどこおり、亡くなられました。

大行皇帝がご存命のころ、義にあつく、恩愛を示され、皇思夫人の霊柩が遠方の地にあって、風に舞うようにして、落ち着かない状況にあることを懸念されました。

そして特に使者を遣わして、蜀に迎えることにされました。

おりしも大行皇帝は崩御され、いま皇思夫人の霊柩が到着するにあたり、梓宮しきゅう(皇帝の柩)もまた道にあり、御陵はまさに完成しようとしており、安置の時期も決まっております。

このため、臣はすぐに太常たいじょう(霊廟・礼儀の管轄官)の頼恭らいきょうらと相談いたしました。

礼記らいき』には『愛の道を打ち立てるには、まず肉親からはじめ、それによって民に孝の道を教える。

敬の道を打ち立てるには、まず年長者を敬うことからはじめ、それによって民に道を教える』とあります。

これは自分を生んだ親のことを、忘れないための教えです。

『春秋』の定義では、母は子の身分によって尊貴になります。

昔、高皇帝(劉邦)は母に追尊し、昭霊しょうれい皇后としました。

そして孝和皇帝もまた、母のりょう貴人を改葬し、恭懷きょうかい皇后の尊号を贈られました。

いま、皇思夫人に尊号をたてまつり、冥界にある霊の悲しみを慰めてくださいませ。

頼恭らと諡号しごうの法則を勘案いたしましたところ、昭烈しょうれつ皇后とするのがふさわしいと思われます。

『詩経』には『いきてはすなわち室を異にするも、死しては則ち穴を同じくせん』とあります。

それゆえ、昭烈皇后は大行皇帝と合葬なさるのがよろしいでしょう。

臣は太尉たいいに請うて宗廟に報告をし、天下に布告したいと考えています。

具えるべき礼儀については、別に奏上いたします」

こうして甘夫人は昭烈皇后となり、劉備と同じ陵墓に入ることになりました。

昭烈の号

『昭烈』の号は劉備の諡である昭烈皇帝から来ており、夫婦で同じ号となっています。

つまり死後になってから、ようやく劉備の正室として扱われるようになったのでした。

これはひとえに、子の劉禅が皇帝になったからです。

当時はこのように、子の身分によって母の身分が変動する、という制度だったのでした。

ちなみに、古代の中国では夫婦を合葬する習慣はなく、それが三国志の頃には変化していたようです。