典韋は曹操に仕え、親衛隊長として活躍した武将です。
並外れた腕力を備え、戟をふるって敵をなぎ倒し、戦場で活躍しました。
強いだけでなく、忠誠心が強く、慎み深い性格で、曹操から信頼されます。
宛で曹操が張繡に敗れた際には、曹操が逃げる時間を稼ぐために陣営に踏みとどまり、多数の敵兵を倒した後で、討ち死にしました。
この文章では、そんな典韋の生涯を書いています。
【典韋の肖像画】
陳留郡に生まれる
典韋は兗州の陳留郡、己吾県の出身でした。
字は伝わっておらず、生年も不明です。
容貌が立派で、筋力が人並外れて優れており、固い節義と男気を備えた人物でした。
友人の仇敵を討つ
襄邑に住む劉氏は、睢陽の李永とは仇敵の間柄でしたが、典韋は劉氏と懇意にしていたので、彼のために報復をしてやることにします。
二人の間にどのようないさかいがあったのかまでは伝わっていません。
李永はもとは富春の長で、いつも注意深く護衛をつけて行動していました。
このため、典韋は車に乗って移動し、それに鶏と酒を積み込み、訪問者を装って李永の家に近づきます。
そして門が開くと、匕首を懐に忍ばせ、邸内に飛び込んで、有無を言わさず李永を刺殺しました。
典韋はゆっくりと邸内から立ち去ると、車に乗せていた刀と戟を手に取り、歩き出しました。
李永の住居は市場に近い場所にあったので、この事件が知られると、市場中が大騒ぎになります。
典韋を追跡するものは数百人にも達しましたが、近づく勇気を持つ者はいませんでした。
やがて四、五里(1.6〜2km)も歩くと、彼らの仲間に遭遇したので、典韋はあちこちで戦ってから、ようやく脱出することができました。
この事件によって典韋の名は、広く豪傑たちに知られることになります。
はじめ張邈に仕え、ついで曹操に仕える
190年ごろに、張邈が兗州で義兵を挙げると、典韋は募集に応じて兵士になりました。
そして司馬(武官)の趙寵に所属します。
この軍の牙門旗(将軍旗)は高く大きく、誰も持ち上げることができませんでした。
しかし典韋はたった一本の腕でそれを立ててみせたので、趙寵は典韋の才能や腕力に目を見張ります。
やがて曹操の腹心である夏侯惇に仕えるようになると、たびたび敵を倒して戦功を立て、司馬に任命されました。
勇士隊に応募する
やがて曹操は兗州に侵入してきた呂布と争うようになります。
この時、呂布には本拠の濮陽の他に屯営を設けており、それは西に四、五十里(16〜20km)ほど離れた場所に設置されていました。
曹操はそこに夜襲をしかけ、明け方ごろまでにこれを撃破します。
しかし、そこから帰還する途中で、ちょうど呂布が率いる援軍が到着し、三方向からゆさぶりをかけながら戦いをしかけてきました。
その時、呂布は自ら白兵戦に加わり、朝早くから日が傾くまで数十回も戦い、曹操軍と激しくもみ合います。
やがて曹操が、敵陣を陥れるための勇士を募集すると、典韋は真っ先にそれに参加し、他にも募集に応じた数十人を指揮することになりました。
この部隊は全員が二重に衣服をまとい、二枚の鎧を着込み、楯は捨て、長い戟を持って武器にしました。
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