中郎将は中国の官職の名称です。
光禄勲府(近衛軍)に属する指揮官で、平時においては、宮殿や皇帝の身辺を守る地位でした。
禄高は比二千石でしたので、高い身分だったと言えます。
(二千石にもいくつか種類があるのですが、おおむね朝廷の重臣にあたる階級です)
指揮官としての格は将軍につぐもので、現代で言えば准将や大佐にあたります。
秦から唐の時代(前221-907年)まで設置されていました。
種類
後漢の時代には、五官中郎将、左中郎将、右中郎将、虎賁中郎将、羽林中郎将と、いくつかの種類があり、役割が別れていました。
五官と左・右中郎将
五官中郎将は五官・左・右の三つの中郎将の筆頭で、宮中の諸門の警備を統括する地位でした。
朝廷の中心地を守っていたわけですので、重要な役割です。
魏を建国した曹操や曹丕が、この地位についていたことがあります。
虎賁中郎将
虎賁中郎将は皇帝の衛士を指揮する立場で、皇帝の身辺警護がその役割です。
現代で言えばSPのリーダーといったところでしょうか。
ちなみに「虎賁」とは「虎のごとく勇猛果敢」という意味です。
三国志の人物では、袁術がこの地位に就いていたことがあります。
羽林中郎将
羽林中郎将は羽林騎という、皇帝直属の騎兵を統括する立場です。
この羽林が宮殿の外に出撃する際には、騎都尉が指揮をとることもありました。
その他
後漢末期になると、各地で反乱があいつぐようになりました。
このため、新たに東・西・南・北の四つの中郎将が設置され、地方に遠征をして反乱の鎮圧にあたりました。
有名なところでは、董卓が東中郎将に、廬植が北中郎将に任命されています。
他には関羽や張飛が、劉備が曹操の下についていた時期に、中郎将に任命されています。
(ちなみに劉備は左将軍になっています)
【中郎将となって地位を高めた張飛 その後は蜀の車騎将軍まで出世した】
三国志の主要人物たちは中郎将を経由して、将軍の地位に昇っていくことが多かったのでした。
三国時代
戦乱が極まっていくと、群雄たちはそれぞれ独自に中郎将を任命するようになります。
たとえば諸葛亮や龐統は、劉備が荊州南部を占拠した際に、軍師中郎将になっています。
中郎将は戦乱の中で、朝廷を守る立場から、各地の将軍の下で、数千人の兵を率いて戦う上級指揮官を意味する地位に変貌していったのでした。
このため、魏・蜀・呉の三国でも、数多くの武将たちが中郎将に任命されています。