太史慈 劉備に救援を求め、孫策に仕えて活躍した武人の生涯

スポンサーリンク

太史慈たいしじは後漢の末期に活躍した武人です。

単に強いだけでなく、信義に厚く、機転がきく性格で、相当に有能な人物でした。

しかしなかなか主君に恵まれず、各地を流転していましたが、孫策に出会うことで運が開け、重く用いられるようになりました。

この文章では、そんな太史慈の生涯について書いてみます。

【太史慈の肖像画】

青州に生まれる

太史慈はあざな子義しぎといい、166年に青州の東莱とうらい郡で誕生しました。

(青州は中国北東の沿岸部にある州で、現在は山東省になっています)

太史慈は若い頃から学問を好み、郡の役所に仕えて奏曹史そうそうし(総務職)となります。

太史慈というと武勇の士、という印象が強いのですが、初めは文官として働いていたのでした。

一方で太史慈は弓の名手でもあり、文武両道の人物だったのだと言えます。

外見には、身長が7尺7寸(約185cm)あり、見事なひげをはやし、腕が長いという特徴がありました。

州と郡の間でもめごとが起こる

太史慈は東莱郡の役所で働き始めたものの、その道のりは順調とは言えませんでした。

ある時、青州と東莱郡の役所の間でもめごとが発生し、なかなかおさまることがありませんでした。

(現代の日本でたとえると、県庁と市役所が争っているようなものです。)

このため朝廷に事態を伝え、裁いてもらうことにしますが、どちらが先に朝廷に書状を送り届けるかで、有利不利が定まる状況になります。

やがて、州刺史(長官)の書状を持った役人が都に向かっているという知らせが届き、郡の太守は遅れをとったことを知りました。

そこで頼りになる者はいないかと探したところ、太史慈の名前があがります。

ゆえに太守は太史慈に、「州の使者を出し抜き、自分の書状を先に朝廷に提出するように」と命じました。

太史慈は命令を受けるとただちに出発し、昼夜兼行で首都・洛陽らくようにかけつけます。

そして都に到着すると、地方からの訴状を受けつける役所に、既に州の役人が到着しているのを見つけました。

太史慈は間一髪でまにあったわけですが、さっそく「あなたは朝廷に書状を提出しようとしているのですか?」と州の役人にたずねます。

「そうですが」と役人が返答すると、太史慈は「その書状はどこにあるのでしょう?」とさらにたずねます。

すると役人が「馬車の中にありますよ」と答えたので、「表書きをよく確認した方がいいでしょう。朝廷に提出するのに、もしも間違っていたら大変ですから。私が見てあげましょう」と親切ごかして勧めました。

そう言われて不安になった州の役人が書状を持ってくると、太史慈はそれを受け取ります。

すると懐に忍ばせておいた小刀を取り出し、手早く切り裂いてしまいました。

「何をする!」と驚いた役人が大声を出したので、太史慈は彼を車の影にひっぱりこみ、こうささやきました。

「もしもあなたが私に書状を渡さなければ、私が書状を破ることはできなかった。だからあなたと私は、どちらにも過失があったことになる。このまま黙って二人ともこの場を逃れるのが一番だ。二人そろって処刑されることもあるまい」

これを聞いた役人は憤りながらも、太史慈の言うことはもっともだったので、ひとまず騒ぎ立てるのをやめました。

そして「あんたは郡のために書状を破り、思い通りにことを運べた。それなのに、どうして逃げるんだ?」といぶかしんでたずねます。

すると太史慈が「郡から派遣されたのは、書状が提出されたかどうかを確かめるためだった。なのに私はやりすぎて、書状を切り裂いてしまった。このまま群の役所に帰れば責任を追及されるだろう。だから一緒に逃げようと言っているんだ」と答え、役人はそれに納得し、二人で逃亡することになりました。

太史慈だけ引き返す

しかし太史慈は役人と一緒に城門を出ると、しばらくしてから姿をくらまし、ひそかに洛陽にまいもどります。

そして郡の太守から預かっていた書状を朝廷に提出し、まんまと州を出し抜くことに成功したのでした。

州の方ではその話を聞くと、再び書状を提出しようとしますが、すでに郡からの書状が出ているので、受けつけてもらえませんでした

この結果、州の方が不利な処分を受けることになります。

この事件によって太史慈は世間に名を知られましたが、青州刺史からは恨まれることになったので、後難を恐れて身を隠すことにしました。

結局は、太史慈もまた逃亡者になり、しばらくは遼東りょうとう(北方の辺境地帯)に潜伏することになります。

このように、太史慈には機略があったものの、そのせいで、かえって身分を失ってしまったのでした。

人をだますのは悪事ですが、手段を問わず、上官の命令を忠実に遂行した、という意味では称賛される行いでもあり、なかなか評価が難しい事件だったのだと言えます。

【次のページに続く▼】